2022年12月12日月曜日

李陵と蘇武(1)

 シルクロードのものがたり(4)

李陵と蘇武(そぶ)は若い頃から20年の友人だった。蘇武のほうが少し年長と思える。

蘇武が北へ立ってまもなく、武の老婆が病死した時、陵はその葬儀に参列した。その一年後、陵が北征出発の直前、蘇武の妻が良人が再び帰る見込みがないと知って、家を去って他家に嫁いだという噂を聞き、友のためにその妻の浮薄(ふはく)を憤った。二人はそのような仲であった。

捕虜となった李陵の待遇は悪いものではなかった。いや、匈奴は彼を優遇した。理由はその勇気にあった。単于(ぜんう)は手ずから李陵の縄を解き、李陵ほどの手強い敵に遭ったことがないと陵の善戦を褒めた。単于の長男・左賢王にいたっては、好意というより尊敬の念を持って李陵に接した。いわば、弟子として李陵の指導をあおぐとの姿勢をとった。単于は陵に大きな住居(ドーム型の天幕)と数十人の侍者を与え、陵を賓客として遇した。

善戦したにもかかわらず、母国の漢は陵を裏切者として、その家族全員を殺した。かたや敵である匈奴は、陵の勇気を高く評価して下にもおかぬ厚遇でもてなす。李陵にとって奇妙な生活がはじまったのである。

李陵が捕虜になったのは天漢二年(前99年)の秋である。じつはその一年前から、蘇武は軟禁のかたちで胡地に引き留められていた。

「漢の中郎将蘇武」、「騎都尉(きとい)李陵は歩卒五千を率い」と「漢書」にあることから、両者は後世の日本陸軍でいえば中将か少将クラスの地位にあったと思える。

蘇武は李陵のように匈奴を撃つために胡地に入ったのではない。平和の使節として捕虜交換の団長として、いわば外交官の立場で遣わされた。ところが、その副使・某(なにがし)がたまたま匈奴の内紛に関係したため、使節団全員が囚われの身となった。蘇武は匈奴のこの無礼に対し強く抗議した。それが受け入れられないと知ると、辱めを避けようと自ら剣を取って自分の胸を貫いた。匈奴の伝統の荒療治のおかげで、蘇武は息を吹き返した。

匈奴の単于は、あらためて蘇武の勇気に惚れ込んで、熱心に投降して家来になることを勧めた。しかし蘇武はかたくなにこれを拒んだ。あきれはてた単于は、それでも蘇武を殺さず、部下に命じて、蘇武をバイカル湖のほとりのほったて小屋に追いやって羊を飼わせるように命じた。

「牡羊(おひつじ)が乳を出すまでは帰ることを許さぬ」と単于が言ったと、「漢書」は記している。ところが不思議なことに、19年の後、蘇武は無事に故国の漢に帰国することになる。

李陵はそれなりの待遇を受け、現在のウランバートルの北方、バイカル湖の南方で生活をしていた。かたや蘇武は、そこからさらに北のバイカル湖のほとりの丸太小屋に住み、質素な生活をしながら羊を飼っていた。二人は時おり会っていたという記述があるので、李陵は蘇武に酒や食料の差し入れをしていたかも知れない。

蘇武が囚われの身となったのは前100年、李陵が捕虜になったのは前99年、武帝の崩御は前87年である。そして蘇武が19年間の羊飼い生活ののち、漢に帰国するのは前81年だと「漢書」は記している。

蘇武の漢への帰国の話は、昔から有名だ。


外交官として派遣された蘇武の一行が帰国しないので、当初から漢は外交ルートを通じて、「どうなっているのだ!」と頻繁に匈奴に問い合わせていた。そのたびに、「蘇武はすでに亡くなった」と匈奴側は返答していた。不信に思いながらも、漢側には打つ手がなかった。

19年目になって、蘇武に従って胡地に入った常恵(じょうけい)という者が(この人はもとは胡人であるらしい)漢の使者に、「蘇武は生きている。次のような嘘をもって単于に働きかければ、蘇武を救出できるかもしれない」と教えた。

「漢の天子が皇室の大御苑で得た雁(かり)の足に、蘇武の ”生きている” との帛書(はくしょ・布に書いた手紙)がついていた」こう言って、漢は蘇武の返還を匈奴に迫った。

「ばれてしまったか。申し訳ない」と、匈奴の単于はいとも簡単にこれを認め、蘇武の漢へに帰国を認めた。匈奴にとって、これは都合の良いアプローチであったらしい。武帝の崩御のあと、漢と匈奴の緊張関係は緩やかになっていた。匈奴側には漢との友好関係を築きたいとの思惑があったようである。


北朝鮮に拉致されたまま、解決に何の進展もない横田めぐみさん救出に、この手が使えないだろうか。

「北朝鮮方面から飛んできた渡り鳥の足に、”めぐみは生きています” との手紙が括り付けててあった。早くめぐみさんを返せ!」と日本政府が北朝鮮に突きつけるのだ。

そんな幼稚なやり方で、北朝鮮の将軍さまがめぐみさんを返すわけはない、とは99パーセント私も思う。しかし、北朝鮮は「めぐみさんは亡くなっている」と言った手前、北朝鮮側から今更生きているとは言えない立場にある。日本との友好を望んでいるのなら、わずか1パーセントであっても、”渡りに船” とめぐみさんを返してくれる可能性があるかもしれない。やってみる価値はあると思う。このままではお母様もめぐみさんも老いるばかりだ。


20年ほど前の話である。

転職の相談で、私の目の前に美貌で聡明な30代後半の女性が現れた。胸に青いリボンをつけておられたので聞いてみた。めぐみさんの新潟の中学校時代の親友だとおっしゃる。その方の口から、「めぐみさんは人柄が優しく誰からも好かれていた。勉強も私よりはるかに良く出来ていた」と聞いた。その女性は一橋大学の卒業であったと記憶する。









2022年12月5日月曜日

李陵と司馬遷

 シルクロードのものがたり(3)

李陵は李広将軍の孫にあたる。李広の長男・李当戸の長男が李陵である。ただ、陵が生まれる半年前に父・当戸が亡くなったので、陵は祖父・広に育てられた。

史記の李将軍列伝の終わりに、短い李陵伝があるが、これは後世の人が加筆したもので司馬遷の筆ではない。

「史記」の約二百年後に書かれた、中国の二番目の正史(青史)「漢書・かんじょ」の中に、李陵の伝記が詳しく書かれてある。この「漢書」をもとに、昭和17年10月に33歳の中島敦が喘息の発作にあえぎながら一気に書き上げたのが、名作「李陵」である。同年12月4日に中島敦は没した。

今、机上の「漢書」と「中島・李陵」を読み比べているが、後者の方がより迫力があり理解しやすい。名作だと、改めて感じている。これを参考にして、李陵の小伝と司馬遷との関係を簡潔に紹介したい。

「漢の武帝の天漢2年(前99年)9月、騎都尉(きとい)・李陵は歩卒五千を率い、辺塞(へんさい) 遮虜障(しゃりょしょう)を発して北へ向かった」と名文ははじまる。

大将軍・李広利(李広とはまったく別人)の支隊として歩兵だけ五千を率いて出発したのだが、八万の匈奴の騎兵に取り囲まれ、大半の兵が戦死し李陵は捕虜になった。11月に入って、将を失った四百の敗残兵は漢の領土の最北端にたどりつき、敗報はただちに駅伝をもって都・長安に伝えられた。

武帝は思いのほか腹を立てなかった。本軍である李広利の大軍さえ惨敗しているのだ。一支隊の李陵の寡軍には大した期待はしてなかったようだ。それに、武帝は李陵が戦死していると思っていた。翌、天漢3年の春になって、李陵は戦死したのではない、とらえられて捕虜になったのだという確報が届いた。これで武帝は激怒した。

武帝は重臣たちを集めて、李陵の処置について会議をおこなった。帝の激怒を知って、あえて李陵のために弁解する者はいない。みなが自己保全に走ったのだ。重臣たちは口をきわめて李陵の売国的行為を罵った。李陵のごとき男と一緒に朝に仕えていたと思うと今更ながらはずかしい、と言い出す者もいる。

彼らは数カ月前に李陵が都を出発するときに、杯をあげてその出陣を祝い、名将李広の孫である陵を讃えた者たちである。ーこのような光景はワンマン社長をトップにいただく日本の大企業によく見られるもので、珍しいことではない。人間というものは、悲しいかなこのような行動をとるものなのであるー

この時、一人の男が、はっきりと李陵を褒めあげた。

「陵の平生を見るに親に仕えて孝、士と交わりて信、身を顧みず国家の急に殉ずるは誠に国士の風あり。今不幸にして事敗れたりといえども、五千に満たぬ歩兵を率いて深く敵地に入り、匈奴数万の兵を奔命(ほんめい)させた。軍敗れたりといえど、その善戦は天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして虜(とりこ)になったのは、ひそかにかの地にあって、何事か漢に報いんと期してのことに違いあるまい」

こう言って、李陵のために弁じたのが、ほかならぬ司馬遷であった。

司馬遷が席を去ったあと、君則の佞人たちは、司馬遷と李陵の親しい関係について武帝の耳に入れ、たかが太史令の身分の者が皇帝に対して余りにも不遜な態度であるといきまいた。武帝は、司馬遷の李陵弁護を自分の寵愛する大将軍・李広利への誣告(ぶこく)と思った。

そして、この会議の結論として、司馬遷は「死刑」と決まった。死をあがなう五十万銭が準備できず、司馬遷は「宮(腐刑・ふけい)」の刑になった。

その後、李陵の母・妻子など一族は処刑され、財産は没収された。この時の各人の年齢は、李陵・四十手前、司馬遷・四十五前後、武帝・六十くらいであったと推測する。


中島敦の小説「李陵」の成立と題名について、「李陵と蘇武」の著者・冨谷至氏は次のように述べている。

中島敦が亡くなったあと、未亡人は部屋に残っていた草稿を深田久彌氏(1903-1971)に渡した。深田は、一高・東大時代の中島の先輩で、「文学界」という雑誌の創刊者であり、中島は生前この「文学界」にいくつかの作品を発表していた。

この原稿を高く評価した深田は、「文学界」に載せた。原稿用紙には題名がついてないので、仮の題名として深田は「李陵」として発表した。

ところが、後日、中島敦の遺品の中から別のメモ書きが発見された。それには、「李陵・司馬遷 莫北悲歌」、「莫北」、「莫北悲歌」などの文字が残されていた。これらの題名が中島の頭にあったようである。

秦・漢代の武人 辻道雄氏提供