シルクロードのものがたり(14)
「中国とインドは近い!」 驚くべき張騫の武帝への報告
張騫のシリーズはあと2回でおしまいにしたい。いままでご紹介したものは、司馬遷が「張騫の伝記」として記述したものである。この10倍ぐらいの分量が「史記・大苑列伝」に続くのだが、これらはみな張騫の武帝への報告書である。
2100年以上前に書かれたこの古い書物を読んで、「我が意を得たり」との新鮮な驚きを覚えた。「中国とインドは近いはずだ」と張騫は武帝に報告しているのだ。
4世紀・5世紀(東晋)の法顕(ほっけん)は、シルクロードの西域南道を進み、タクラマカン砂漠では死者の白骨を道標にして6年かけてインドに到着した。帰路はスリランカから船出して、荒れ狂うインド洋・南シナ海を経由して中国に戻っている。また、7世紀(唐)の玄奘三蔵は、行きも帰りもシルクロードを通り沙漠を超えて、ウズベキスタン・アフガニスタン・パキスタンを経由して、重い荷物を背中に背負い、中国とインドを往復した。
大きなアジア地図を前に置いて、この二人の高僧の旅路のあとをたどったとき、「どうしてこのような遠回りをしてインドに行ったのか? 高い山脈があるにしても、蜀(四川)から雲南に入り、ミャンマー北部を経由して西進すれば、インドはすぐそこではないか」と私は若い頃からいつも不思議に思っていた。このことを二千年以上も昔の前漢の時代に、張騫がすでに武帝に報告していたことを知り、とても驚いた。
張騫の武帝への報告を、司馬遷は次のように報告している。
「臣(張騫)が大夏(アフガニスタン)におりましたとき、蜀(四川)の竹杖(たけつえ)と布を見かけました。 ”どこでこれを手に入れたのか” とたずねましたところ、大夏の人は ”われわれの商人が出かけて行って身毒(インド)で購入してきたのです” と申しました。身毒は大夏の東南数千里にあり、その習俗は大夏と似通っています。その土地は暑熱で、人民は象に乗って戦い、その国は大河に臨んでいます。
騫が計算してみますと、大夏は漢を去ること一万二千里で漢の西南にあたります。身毒国は大夏の東南数千里に位置し、蜀の物資があります。つまり蜀から身毒(インド)までは遠くありません。今後は大夏(アフガニスタン)に使いする場合は、蜀(四川)から身毒(インド)を経由してゆけば近道ですし、匈奴や羌族に捕らえられることはないでしょう」
今、アジア地図をながめながらこれを書いているが、張騫の武帝はの報告の地理的な正確さに驚いている。
この報告を聞いた漢の武帝は大いに喜んだ。大苑(ウズベキスタン)および大夏(アフガニスタン)・安息(イラン)などはみな大国で珍奇な物品が多く汗血馬(名馬)も多い。それでいて軍事力は弱い。これらの国々を属国化すれば漢の国土は広がり、すなわち北方の匈奴を打ち負かすことができる。武帝はこう考えたのである。
そこで武帝は張騫に命じて、遠征隊を四班に分けて蜀(四川)から出発させた。ところがこのルートでの遠征は失敗に終わった。