2023年4月25日火曜日

張騫とシルクロード(8)

 シルクロードのものがたり(14)

「中国とインドは近い!」 驚くべき張騫の武帝への報告

張騫のシリーズはあと2回でおしまいにしたい。いままでご紹介したものは、司馬遷が「張騫の伝記」として記述したものである。この10倍ぐらいの分量が「史記・大苑列伝」に続くのだが、これらはみな張騫の武帝への報告書である。

2100年以上前に書かれたこの古い書物を読んで、「我が意を得たり」との新鮮な驚きを覚えた。「中国とインドは近いはずだ」と張騫は武帝に報告しているのだ。


4世紀・5世紀(東晋)の法顕(ほっけん)は、シルクロードの西域南道を進み、タクラマカン砂漠では死者の白骨を道標にして6年かけてインドに到着した。帰路はスリランカから船出して、荒れ狂うインド洋・南シナ海を経由して中国に戻っている。また、7世紀(唐)の玄奘三蔵は、行きも帰りもシルクロードを通り沙漠を超えて、ウズベキスタン・アフガニスタン・パキスタンを経由して、重い荷物を背中に背負い、中国とインドを往復した。

大きなアジア地図を前に置いて、この二人の高僧の旅路のあとをたどったとき、「どうしてこのような遠回りをしてインドに行ったのか? 高い山脈があるにしても、蜀(四川)から雲南に入り、ミャンマー北部を経由して西進すれば、インドはすぐそこではないか」と私は若い頃からいつも不思議に思っていた。このことを二千年以上も昔の前漢の時代に、張騫がすでに武帝に報告していたことを知り、とても驚いた。

張騫の武帝への報告を、司馬遷は次のように報告している。

「臣(張騫)が大夏(アフガニスタン)におりましたとき、蜀(四川)の竹杖(たけつえ)と布を見かけました。 ”どこでこれを手に入れたのか” とたずねましたところ、大夏の人は ”われわれの商人が出かけて行って身毒(インド)で購入してきたのです” と申しました。身毒は大夏の東南数千里にあり、その習俗は大夏と似通っています。その土地は暑熱で、人民は象に乗って戦い、その国は大河に臨んでいます。

騫が計算してみますと、大夏は漢を去ること一万二千里で漢の西南にあたります。身毒国は大夏の東南数千里に位置し、蜀の物資があります。つまり蜀から身毒(インド)までは遠くありません。今後は大夏(アフガニスタン)に使いする場合は、蜀(四川)から身毒(インド)を経由してゆけば近道ですし、匈奴や羌族に捕らえられることはないでしょう」


今、アジア地図をながめながらこれを書いているが、張騫の武帝はの報告の地理的な正確さに驚いている。

この報告を聞いた漢の武帝は大いに喜んだ。大苑(ウズベキスタン)および大夏(アフガニスタン)・安息(イラン)などはみな大国で珍奇な物品が多く汗血馬(名馬)も多い。それでいて軍事力は弱い。これらの国々を属国化すれば漢の国土は広がり、すなわち北方の匈奴を打ち負かすことができる。武帝はこう考えたのである。

そこで武帝は張騫に命じて、遠征隊を四班に分けて蜀(四川)から出発させた。ところがこのルートでの遠征は失敗に終わった。








2023年4月17日月曜日

張騫とシルクロード(7)

シルクロードのものがたり(13)

「史記・大苑列伝」を続ける。

「1年余り拘留されているうちに単于が死んだ。サロクリ王が単于の皇太子を攻めて自立し、匈奴の国内が乱れたので、張騫は胡妻(匈奴で娶った妻)および従者の甘父とともに漢に逃げ帰った。漢では騫 を大中太夫に任じ、従者の甘父に奉使君という称号を与えた。

張騫は意志が強く、辛抱して堅実に事にあたり、心が寛やかで人を信じたので、蛮夷もこれを愛した。従者の甘父は、もともと匈奴人であり、弓が上手で、困窮したときには禽獣を射て食用に給した。はじめ張騫が出発したときには、一行は百余人であったが、13年たってただ2人だけが帰ることができたのである。

張騫がみずから行ったところは、大苑(カザフスタン南部)、大月氏(ウズベキスタン南西部)、大夏(アフガニスタン)、康居(カザフスタン西部・ウズベキスタン西部)で、ほかにその近郊の5・6の大国についても伝え聞いてきて、つぎのようにつぶさに言上した」


司馬遷が伝える「大苑列伝」の中で、張騫の人となりを伝える文章は以上がすべてである。「大苑列伝」にはさらにこの10倍以上が書かれているが、これらはすべて張騫が漢の武帝に言上した報告書である。

「張騫はその胡妻および従者の甘父とともに漢に逃げ帰った」の部分に私は注目する。私だけではあるまい。司馬遷が「史記」を書いたのは二千年以上も昔である。それ以来、幾多の中国人・朝鮮人・越南人・日本人が漢文でこの箇所を読み、張騫の人柄に感激したのではあるまいか。私はその一人にすぎない。

張騫は大柄で、その性格は寛大で人を信じ、その人柄を蕃夷も愛したという。張騫が「胡妻」をつれ帰ったことは、その優しい人柄を物語っている。

命がけの逃亡をするには、女・子供は足手まといになる。ましてこの胡妻は、匈奴の単于のはからいで与えられた現地妻である。普通ならそんな女性など、捨てて逃げ帰るところだ。しかし張騫はそのように切迫した時にも、胡妻をつれて漢に帰国した。この優しい張騫の人柄に感激するのは私一人ではあるまい。

黄金や銀を得るために原住民に虐待の限りを尽くしたコロンブスなら、このような行動はとらなかったと思う。コロンブスに比べ、張騫がはるかに上等の人間だと思う理由はここにある。


ところで、二人の間に生まれた子供はどうしたのであろうか?

司馬遷が書き忘れただけで、一緒に漢に連れて帰ったのであろうか?それとも、張騫と胡妻の二人が考えぬいたすえ、逃亡時の危険を避けるため、胡妻の両親に子供たちを預けたのであろうか?2000年以上昔のことながら、なんだか気にかかる。

南ゴビ砂漠 辻道雄氏提供


2023年4月9日日曜日

張騫とシルクロード(6)

 シルクロードのものがたり(12)

張騫「大月氏国」に向かう(4)

あと二回、「史記・大苑列伝」を続けさせていただく。

「大月氏は王が匈奴に殺されたので、その太子を立てて王にしていた。そして、このときは、新しい王は大夏国(現在のアフガニスタン北部)を臣従させて、その地に居住していた。地味は肥沃で侵攻してくる者はほとんどなく、安楽に日を送っていた。そして、漢とは遠く離れているので、漢と同盟して匈奴に報復しようという心がなかった。騫は月氏国から大夏に行ったが、ついに月氏の同意を得ることができず、1年余り逗留して帰途についた。南山(なんざん)に沿い、羌族(きょうぞく)の地を通って帰ろうとしたが、ふたたび匈奴に捕らえられた」

漢の武帝にすれば、「月氏王は匈奴に殺され、匈奴はその頭蓋骨を酒器にして酒盛りをしている」と聞いていたので、月氏の新王はきっと仇き討ちしたいはずだ、と考えていた。

しかし、ウズベキスタン南西部からアフガニスタン北部の、気候の良い豊饒な地で平和に暮らしている月氏の新王が、これに応じなかったことは現在の我々にも理解できる。短い年月でこの地域を支配下に置いたという事実は、月氏の新王は軍人・政治家としてよほど優れた能力を持っていたのであろう。

張騫の熱意ある雄弁をもってしても、月氏の新王は首を縦にはふらなかった。

「騫は月氏国から大夏に行った」というから、現在のウズベキスタン、トルクメニスタンを経由してアフガニスタンの北部まで行ったことになる。


「南山(なんざん)に沿い羌族(きょうぞく)の地を通って帰ろうとした」の部分が、どのようなルートか、私にはわかりにくい。「南山」と表記する山は、古代中国の本を読むとあちこちに見える。ただ、「羌族の地」という記述と、北アフガニスタンから長安に帰るルートを中央アジアの地図を眺めながら想像すると、張騫は「チベットの北部、すなわち崑崙(こんろん)山脈の南を東進したのではあるまいか」と考える。

「1年あまり逗留して」の記述から、月氏の新王は漢と同盟して匈奴を討つ話には同意しなかったものの、漢の外交官である張騫に対しては、敬意を表して彼を優遇したように思える。

ところがふたたび匈奴に捕らえられる。

このルートには匈奴人は住んではいなかったが、「羌族」というのが匈奴に敗北した後、匈奴の子分(属国)のような存在で、匈奴の見張り役的な存在であったからだ。

林檎とハチミツ売り・サマルカンド 提供辻道雄氏