2023年4月17日月曜日

張騫とシルクロード(7)

シルクロードのものがたり(13)

「史記・大苑列伝」を続ける。

「1年余り拘留されているうちに単于が死んだ。サロクリ王が単于の皇太子を攻めて自立し、匈奴の国内が乱れたので、張騫は胡妻(匈奴で娶った妻)および従者の甘父とともに漢に逃げ帰った。漢では騫 を大中太夫に任じ、従者の甘父に奉使君という称号を与えた。

張騫は意志が強く、辛抱して堅実に事にあたり、心が寛やかで人を信じたので、蛮夷もこれを愛した。従者の甘父は、もともと匈奴人であり、弓が上手で、困窮したときには禽獣を射て食用に給した。はじめ張騫が出発したときには、一行は百余人であったが、13年たってただ2人だけが帰ることができたのである。

張騫がみずから行ったところは、大苑(カザフスタン南部)、大月氏(ウズベキスタン南西部)、大夏(アフガニスタン)、康居(カザフスタン西部・ウズベキスタン西部)で、ほかにその近郊の5・6の大国についても伝え聞いてきて、つぎのようにつぶさに言上した」


司馬遷が伝える「大苑列伝」の中で、張騫の人となりを伝える文章は以上がすべてである。「大苑列伝」にはさらにこの10倍以上が書かれているが、これらはすべて張騫が漢の武帝に言上した報告書である。

「張騫はその胡妻および従者の甘父とともに漢に逃げ帰った」の部分に私は注目する。私だけではあるまい。司馬遷が「史記」を書いたのは二千年以上も昔である。それ以来、幾多の中国人・朝鮮人・越南人・日本人が漢文でこの箇所を読み、張騫の人柄に感激したのではあるまいか。私はその一人にすぎない。

張騫は大柄で、その性格は寛大で人を信じ、その人柄を蕃夷も愛したという。張騫が「胡妻」をつれ帰ったことは、その優しい人柄を物語っている。

命がけの逃亡をするには、女・子供は足手まといになる。ましてこの胡妻は、匈奴の単于のはからいで与えられた現地妻である。普通ならそんな女性など、捨てて逃げ帰るところだ。しかし張騫はそのように切迫した時にも、胡妻をつれて漢に帰国した。この優しい張騫の人柄に感激するのは私一人ではあるまい。

黄金や銀を得るために原住民に虐待の限りを尽くしたコロンブスなら、このような行動はとらなかったと思う。コロンブスに比べ、張騫がはるかに上等の人間だと思う理由はここにある。


ところで、二人の間に生まれた子供はどうしたのであろうか?

司馬遷が書き忘れただけで、一緒に漢に連れて帰ったのであろうか?それとも、張騫と胡妻の二人が考えぬいたすえ、逃亡時の危険を避けるため、胡妻の両親に子供たちを預けたのであろうか?2000年以上昔のことながら、なんだか気にかかる。

南ゴビ砂漠 辻道雄氏提供


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