シルクロードのものがたり(22)
無花果(いちじく)
石榴や胡桃にくらべると、このイチジクには、子供の頃から馴染みが深い。広島県東南部にある私の村ではこれを「とうがき」と呼んでいた。「唐柿」と書くのであろう。この言葉から、中国を経由して日本に入ってきた果物であろう、と子供の私は思っていた。
唐という国は長い間、日本人にとって先生ともいえる、偉大な国であった。唐が滅びて、宋・元・明・清の時代になってからも、日本人は中国のことを「唐・とう・から」と呼んで尊敬していた。
「唐柿・とうがき」以外にも「唐鍬・とうぐわ」という言葉を今でも私の故郷では使う。村の地区に「唐樋・からひ」という場所がある。「樋」というのは「木でつくった水を通すみち」のことだ。子供の頃、村の物知り爺さまから、「江戸時代に当時最先端の唐(から)の技術を導入して造った水門跡だからこう呼ぶのだ」と聞いた記憶がある。
小学生のころ、近所の富有柿の樹によじ登って柿を食って、持ち主の爺さまに「このトージンが!」と追い回されていた。「トージン」とは「盗人」と書いて「ドロボウ」の意味がと思っていたのだが、「唐人」と書いて「馬鹿者」という意味だとずいぶん後で知った。長い間中国のことを尊敬していた日本人が、このような言葉を使い始めたのは日清戦争のあとのような気がする。「イチジク」とは関係ない話になってしまった。
この「イチジク」、人類にとってずいぶん昔から縁のある果物らしい。旧約聖書の「禁断の実・林檎を食べたアダムとイブが、裸であることに気付いて下半身をイチジクの葉で隠した」というのはずいぶん新しい話である。エジプトでは4000年前、メソポタミアでは6000年前に栽培されていた、1万2000年前の石器時代の遺跡からイチジクの痕跡が発見された、などとその方面の研究者は言う。
原産地はアラビア半島、というのは間違いないらしい。ただ、半島の南部説と北部説と二つがある。アラビア半島の北西部ヨルダン川近く現在のエルサレム近郊との説があるが、私にはこの説はキリスト教徒の我田引水のように思える。私自身は、イチジクの原産地はアラビア半島の南部、現在のイエメン・オーマンあたりだと考えている。
日本への伝来は、シルクロードを通って中国経由で入ったと考えられるが、中国に入ったのは13世紀で、日本に入ったのは戦国時代か江戸時代の初めといわれるので、案外新しい。イエズス会の文書では、ポルトガル航路(リスボン・ゴア・マカオ・長崎)経由で日本に入ったと書かれている。ただ、ヨーロッパ人は我田引水(自己中心)の癖があるので、私はこの説には首をかしげている。
コルシカ島の貧乏貴族の息子だったナポレオン・ボナパルトは、「子供の頃の家庭における自分の役目は、朝早く起きて籠をもってイチジクを採ることだった」と自伝に書き残している。パパイアと同じくタンパク質分解酵素を多く含むので、食後のデザートには好都合の果物らしい。
私も子供の頃、家のイチジクの樹に登ってこれを採っていた。樹の上からヘビがぶら下がって私の顔の前でベロペロと赤い舌を出している。びっくりして樹からずり降りた。イチジクの樹の根元に座り込んでいる私を見て、祖母が「どうした?」と聞く。かくかくしかじか、と言うと、「ヘビを見たぐらいで腰を抜かず奴がいるか!」とこっびどく怒られてしまった。
自分が子供だったこともあろうが、昔のイチジクの樹はけっこうな巨木で、それによじ登って採っていたような気がする。近頃のイチジク栽培農家は樹を高くしない。原則、立ったまま手で収穫できるよう低い樹に剪定している。広島県の南東部にある私の故郷は、イチジクの栽培に適しているらしく、イチジク農家が多い。我が家の畑にも、イチジク栽培のプロの友人が10年ほど前に植えてくれたイチジクの樹が2本ある。1本の樹で、100や200は実をつける。
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