2024年10月30日水曜日

みちのく一人旅(2)

50年前の浪人生との再会(2)

訪問のひと月前、奥様から丁寧な案内をいただいた。「主人が田頭さんをお連れしたい場所があると言っています。当日は昼前に下北駅に着けるよう、始発の新幹線に乗ってください」とのことだ。令和6年10月12日、06時32分東京駅発のはやぶさ1号に乗り、八戸でローカル線に乗り換え、11時07分に下北駅に着いた。

ご夫婦で駅に迎えに来てくださっていた。お互い顔を見てすぐにわかった。50年前はひょうきんで快活な若者、との印象を持っていた。今回会ったら重厚な感じの紳士である。50年間の自己錬磨の賜物であろう。他者に対して気配りする親切な気質は昔と変わらない。

高級車のトランクに私の荷物を入れ、すぐに奥様の運転で北に向かった。しばらくすると海が見えた。快晴でかなり風がある津軽海峡はキラキラと輝いている。そのまま海岸線に沿って走り、正午過ぎに着いたのはまぐろで有名な大間(おおま)漁港だ。


「さつ丸」というまぐろ料理店に入った。大トロのまぐろ丼 の上に生うにが乗せてある。素晴らしく旨い。70代半ばのご主人が「さつ丸」の船長で鮪を獲っていて、奥様がこの店を切り盛りしている。奥様の名前が「さっちゃん」というらしい。この日は時化ているので漁が休みなのだろうか、ご主人も店におられる。若い女性が「山崎さんの奥様には大変お世話になっています」とおっしゃる。この女性はむつ市に住んでいて、通いでこの店を手伝っている。さつ丸夫婦の姪(めい)らしい。「サービスです」と、あぶったタコの足が皿に乗って出てきた。店の写真の右上にタコの足が干してあり、その下にコンロが見える。塩味だけのこのタコの足がとても旨い。

漁港のこのような雰囲気の海鮮レストランは、台湾の花蓮港(かれんこう)やマレーシアのフィッシャーマンズ・マーケットで何度か立ち寄ったことがある。店のつくりは素朴でシンプルだが、魚の味は超一流、というのが世界中で共通している。若い頃、東南アジアの港町をウロウロしていた頃を思い出す。

美味しい大トロのまぐろ丼で腹いっぱいになり、徒歩で「本州最北端の地」の石碑に向かう。津軽海峡の向こうに函館がはっきりと見える。3人で周辺を20分ほど散歩する。「さつ丸」と同じような海鮮レストランが10軒以上あちこちに見える。観光客が多い。アメリカ人らしき子供2人が海鮮料理店の前に立っていたので、片言の英語で話していたら、両親が勘定を済ませて店から出てきた。「三沢から来た」とおっしゃる。「グレイトUSエアーフォースですね!」と言ったらずいぶん喜んでくれる。お返しのつもりか、「お前さん英語がうまいね」とお世辞を言ってくれた。


大間漁港をあとにして、車は南に向かって山に入っていく。恐山(おそれざん)に向かっているらしい。山道はきれいに舗装されているのだが、道の中を5匹・10匹の猿の群れが我がもの顔で歩いているので、運転する奥様があわててブレーキを踏む。

恐山については多少の知識は持っていたが、自分がここに来る機会があるとは思ってもいなかった。比叡山・高野山と共に日本三大霊山の一つ。恐山菩提寺の創建は862年、慈覚大師円仁による。このようにいわれている。山形県の立石寺(りっしゃくじ)は860年、円仁によって創建といわれているが、円仁自身ではなくそのお弟子さんの手によるものらしい。これと同じく、この恐山も円仁の弟子か孫弟子によって開山されたと私は考えている。ともあれ、この恐山に連れてきてもらえたのは僥倖(ぎょうこう)であった。

恐山の菩提寺・賽の河原をあとにして、右にカルデラ湖を見ながら、車はどんどん山を登っていく。航空自衛隊のレーダー基地近くの展望台に連れて行かれた。あとで地図を見ると、この山は釜臥山らしい。ここから大湊湾が一望できる。

会津藩がこの地に入り、斗南(となみ)藩を名乗ったのは明治3年5月である。この地で藩政を担った3人の人物は偉かった。山川浩(ひろし)・広沢安任(やすとう)・永岡久茂(ひさしげ)である。永岡はこの大湊をひらいて、10年後には世界の船を寄港させようと奮闘した。明治35年、日本海軍はこの地に大湊水雷団を置いた。その後、軍港として発展した。津軽海峡の防備、すなわちロシアの日本侵入を防ぐ防人(さきもり)たちの軍事拠点である。山のてっぺんから大湊湾を眺めながら先人たちの労苦を想った。

この展望台を最後に、車はお二人の自宅に向かった。


さつ丸

本州最北端の碑

まぐろ一本釣の町 おおま




恐山

大湊湾 左がむつ市

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