50年前の浪人生との再会
私の小さな書斎の本箱に1冊の本がある。『一休狂雲集』という古典だ。引越しのたびに大事に持ち運んでいた。50年ほど前にこの本をくれたのは、同じアパートで隣の部屋に住む、医学部を目指して勉強していた青年である。
私は27歳、独身で三光汽船に勤務していた。吉祥寺の井の頭公園にほど近いアパートで、場所が便利なので成蹊の学友や三光汽船の仲間がよく泊まりに来ていた。私がこの竹貫アパートに住んだのは1年ほどだった。友人たちには、「となりは浪人生だから、大声を出してはいけないよ」と、私なりに浪人生に気を使っていた。
しばらくしてこの青年が、「田頭さん今夜一緒に夕食しませんか?」と誘ってくれた。土曜日か日曜日の夕方だった。快諾して、1時間ほどして彼の部屋に入ると2人分の料理が並んでいる。自分でつくったらしい。
食事が始まる前、青年は部屋の電灯を消し、古めかしいランプに火をともした。ランプに凝っていて、大正時代や昭和初期の骨とう品のランプをいくつか持っていると言う。変わった若者だなと思った。たしかにランプの灯のもとで食事をするのは心が落ち着いて雰囲気が良い。料理もとても美味しい。食事が終わったらランプを消して電灯をともした。
食後の一服と思い、私がタバコに火をつけようとしたら、「ダメダメ」と言う。タバコを吸うのがダメというのではないらしい。「食事が終わったらすぐに食器を洗わなくてはいけません。私も自分の分は洗います。田頭さんも自分の食器を洗ってください」 これが終わって、タバコを吸わせてもらった。
うるさいことを言うなあ、とこの時は思ったのだが、その後これが私の習慣となった。今でも家内の旅行中とか郷里広島県の実家で一人で食事をするときには、食事が終わったら1分も経たないうちに食器を洗う。お返しのつもりで、私もこの青年を自分の部屋に招いて何度か食事を一緒した。双方合わせて10回程度の会食だった気がする。このアパートを出たのは私が先だった。その時、青年が餞別だといってくれたのがこの本である。
以来50年、「彼は元気かな、立派なお医者さんになったのかなぁ」と時々この青年のことを思い浮かべていた。住所も電話番号もわからない。ただ、名前はわかっている。本に私と自分の名前を書いてくれていた。青森県の人だったという記憶もある。今年の8月、中野の自分の部屋で彼のことを想っていたら、ふと頭の中にひらめいた。もし青森県で医師として働いておられるなら、青森県医師会に聞いたらわかるのではないか。
ネットで調べたら電話番号が出ていたので、思い切って電話をかけてみた。「50年前のことなのですが、かくかくしかじか。この名前の医師が青森県にいらっしゃいますか?」と聞いたら、「いますよ」との返事だ。年配の男性の声だ。「私の名前と電話番号をお伝えします。先生にお伝えいただき、よろしかったら先生から私にお電話をいただきたいのですが、、」と言いかけたら、「電話番号を教えますよ。自分で電話をしてください」とおっしゃる。
このおおらかな返答に私は嬉しくなった。西欧文明の性悪説から出る発想なのだろうか、近頃は個人情報の保護だとか、メールに添付する書類にパスワードをかけるとか、人を疑うような話が多い。私のことを信用してくださったからであろうが、このおおらかな対応に、「これぞ日本人同士の会話だ。さすが、みちのくの人は人物が大きい!」と、私はこの方の対応に感激してしまった。
その病院は青森県の最北端、下北半島のむつ市にあるという。電話を入れると今度は若い女性の声だ。「50年前にお会いした田頭と申します」と伝えたら「少々お待ちください」と快活な声だ。しばらくして、本人が電話口に出た。「いやあ、田頭さん、お久しぶり!」 これが彼の第一声だった。これには感激した。久しぶりも久しぶり、50年ぶりなのだ。
私が青年のことを時おり思い浮かべていたように、彼もまた私のことを気にかけてくれていたようだ。私が三光汽船という海運会社で働いていたことは彼は知っている。同じアパートの時から10年後、三光汽船は「史上最大の倒産」ということで新聞紙上を賑わせた。その時、私はシンガポールにいた。「田頭さんはどうしているのだろう、ちゃんと食っているのかしら」と心配してくれていたようである。「下北まで遊びに行きたいよ」と言ったら、「来い、来い!」という話になって、少し涼しくなった10月頃に、この地を訪問する約束をした。
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