2024年11月27日水曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(15・完)

 シルクロードのものがたり(44)

法顕と鳩摩羅什(2)

さて、法顕の話にもどる。

法顕は苦難の旅をしながら天竺におもむき、危険な航海の末に多くの経典を中国に持ち帰った。しかし、これらの経典の多くはすでに鳩摩羅什の手によって漢語に翻訳されていた。

最澄・空海など唐への留学僧の場合も、現地で修業して仏教の奥儀を習得すると同時に、いかに多くの価値ある経典を我が国に持ち帰るかが重要な使命であった。このことはインドに向かった中国僧も同じである。多くのサンスクリット語の経典を中国に持ち帰り、漢語に翻訳することがとても重要だったのだ。「高僧伝」の鳩摩羅什37ページ、法顕13ページの差は、両者の人物の差だけではなく、翻訳した経典の分量にも関係があるのではないか、と法顕びいきの私は考えている。

北涼王・段業の保護を受けて、法顕が張掖に1年間滞在したことは以前に述べた。400年前後のことである。じつはこの時、鳩摩羅什は張掖より長安寄りの武威という町で、呂光に保護軟禁されて、すでに10年以上が経っていたのである。鳩摩羅什の軟禁のことは極秘とされていて、法顕はまったく知らなかった。あるいは、法顕がもし武威に滞在していたら、現地の僧たちからこの秘密の噂を聞いた可能性はある。

地図を見るとわかるが、通常は長安から張掖(ちょうえき)に行く場合は武威(ぶい)を経過するが、このとき法顕はバイパスを通っていて、武威には立ち寄っていない。もちろん法顕は、自分より年下の、鳩摩羅什という名僧の存在は充分知っていた。

作家の陳舜臣は、「もしこのとき、法顕と鳩摩羅什が武威で会っていたら、法顕の仏典に関する疑義はほとんど解けていたであろう。そして鳩摩羅什の書庫にあるおびただしい仏典を見て狂喜したであろう。もしかしたら、わざわざ天竺へ行く必要はないと、インド行きを中止したかも知れない」とまで言っている。これについては、仏教に無知な私はよくわからないし、コメントもできない。

ともあれ、鳩摩羅什はおびただしい量の経典を翻訳した。約300巻の仏典を漢訳し、玄奘とともに、中国における「二大訳聖」といわれている。

「三蔵法師」という言葉がある。仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三つに精通した僧侶に対する尊称である。のちに、法顕・玄奘・義浄(ぎじょう)を含め、何人もの三蔵法師が中国に生まれるが、最初にこの尊称を受けたのは鳩摩羅什であるらしい。

日本においては、天皇が名僧に贈る「大師」という尊称がある。現在までに二十五人が与えられたと聞く。我が国最初の大師は、下野国出身の僧・円仁で、866年に清和天皇から「慈覚大師」の尊称を賜った。「弟子に贈るなら、その師匠の最澄にも、、、」という話になったらしい。同じとき、最澄は「伝教大師」の尊称を賜った。両人とも没後である。空海の「弘法大師」は、その55年後で、921年に醍醐天皇から賜った。

ところが、現在の日本では「お大師さま」といえば「弘法大師・空海」を指す。中国、日本において三蔵法師といえば、一般的に「玄奘三蔵」を指す。これらからして、玄奘と空海という二人の人物は、だれもが感服する「群を抜いた人物」だったのであろう。


私は、「般若心経・はんにゃしんぎょう」は玄奘がはじめて梵語から漢語に翻訳したと思い込んでいたのだが、最初にこれを翻訳した人物は鳩摩羅什だと最近になって知った。じつは、この「般若心経」は今までに八人の中国僧によって、漢語に翻訳されている。

一番目が鳩摩羅什訳 魔訶般若波羅蜜多大明呪経

二番目が玄奘訳   般若波羅蜜多心経

三番目が義浄訳   仏説能断金剛般若波羅蜜多経

四番から八番は省略する。

三番目の義浄(ぎじょう)という人も傑物で、玄奘より33歳若い(635-713)。法顕や玄奘のあとを慕い、往復路ともに海路で天竺に行き、玄奘が学んだナーナンダ大学(僧院)で10年以上勉強している。

私の家は曹洞宗なので、本山は越前の永平寺である。法事の時にはお坊さまと一緒に、この般若心経を大声を張り上げて唱える。262文字の中身は玄奘三蔵さまの翻訳と承知しているが、不思議に思うことが一つある。それは私の手元にある永平寺版には、「魔訶般若波羅蜜多心経」と書かれている。もしかしたら、この「魔訶・まか」の二文字は鳩摩羅什の翻訳の一部をちょうだいして、玄奘さまの翻訳に付け加えたのであろうか?ご存じの方がおられたら教えていただきたい。

この般若心経というお経は、いままでに日本人が読んだ文章の中では群を抜いて多い気がする。源氏物語や枕草子などとは比べ物にならない。司馬遼太郎や松本清張も真っ青になるくらい、般若心経は多くの人に読まれている。超ベストセラーといえる。

下の写真は、江戸時代に文字の読めない人向けに作られた般若心経である。絵だけで表示してある。ご飯を炊く釜を逆さにして「まか」と読ませ、般若のお面で「はんにゃ」と読ませ、人がものを食べる姿で「くう」と読ませるなど、苦心惨憺のあとが見えて興味深い。


このように、法顕が中国に帰国した時には、彼の持ち帰った経典の多くが、すでに鳩摩羅什の手によって漢訳されていた。それでも法顕は、持ち帰った経典の翻訳作業をコツコツと続けた。文化勲章を受章した有名なインド哲学者・仏教学者の中村元は、「ブッダの発病後の描写においては他のどの諸本より法顕本がもっとも原典に近い」と法顕の翻訳を高く評価されている。

法顕の没年については、八十二歳説と八十六歳説とがある。その晩年、弟子たちは、稀有な体験をした師匠にその旅行譚を聞かせて欲しいと度々せがんだという。快く旅の思い出を語ったあと、法顕は最後に、「私は命を必死の地に投じて、万に一つの希望を達したのです」とかならずつけ加えたといわれる。自己の完遂したこの体験に、大きな満足感を持っていたと思われる。

絵で表示された般若心経



















2024年11月20日水曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(14)

 シルクロードのものがたり(43)

法顕(ほっけん)と鳩摩羅什(くまらじゅう)

先述したように、法顕が船で山東半島に帰着したのは412年7月14日である。鳩摩羅什(350-409)は、この時すでに中国で没していた。この人には344-413年説もあるが、ここでは先の生没年を採る。

今までポツリポツリとこの鳩摩羅什の名前が出てきたが、ここで整理して、この人のことを紹介したい。「高僧伝」の冒頭に次のようにある。

「鳩摩羅什、中国名は童寿(どうじゅ)は天竺の人である。家は代々宰相であった。羅什の祖父の達多(だった)は才気抜群、名声は国中に鳴り響いた。父の鳩摩炎(くまえん)は聡明で気高い節義の持ち主であったが、宰相の位を継ごうとする時になって、なんとそれを断って出家し、東のかた葱嶺(そうれい・パミール高原)を越えた。亀茲(きゅうじ・クチャ)王は彼が世俗的な栄誉を棄てたと聞いてとても敬慕し、わざわざ郊外まで赴いて出迎え、国師となってくれるよう要請した。

王には妹がおり、年は二十になったばかり。頭が良くて聡明鋭敏。そのうえ体に赤いほくろがあって、智慧のある子を産む相だとされ、諸国は嫁に迎えようとしたけれども、どこにも出かけようとはしなかった。ところが摩炎を見るに及んで、自分の相手はこの人だと心にきめた。王はそこで無理に摩炎に迫って妹を妻とさせ、やがて摩什を懐妊した」

これだけで、鳩摩羅什が名門の家系に生まれた、ただならぬ人物だとわかる。七歳になると母親と共に出家して、各地に留学したり名僧のもとで修業し、二十代でその名声ははるか東方の中国(前秦)の皇帝・符堅(ふけん)の耳にまで入った。


この当時の中国政治の変遷はめまぐるしい。その後の16年間、鳩摩羅什はこの中国政治の動乱の人質になったといえる。

381年、前秦の皇帝・符堅の命を受けて、西域に派遣された将軍・呂光(ろこう)は亀茲(クチャ)城を攻略して鳩摩羅什の身柄を確保した。ところが前後して「淝水の戦い」で前秦が東晋に大敗して、符堅はあえない最期をとげる。呂光は2万頭のラクダに乗せた財宝と7万の将兵と共に鳩摩羅什を伴って涼州に帰り、386年、武威を拠点として後涼国を建国した。しかし、401年5月、後秦の跳興(ちょうこう)が軍勢七千騎を派遣して後涼軍を打ち破り、河西諸国一帯は、後秦の跳興の支配するところとなった。

すなわち、鳩摩羅什は36歳から52歳までの16年間、軟禁のかたちで武威の城内にとどめられた。ただし、その身柄は丁重に扱われている。呂光からは国政・軍事の顧問として相談を受けた。言葉を変えれば友人のような形で遇されている。外出の自由を失っただけで、場内では普通の生活をしている。この間に、中国語を完璧に習得したといわれる。

「高僧伝」によると、鳩摩羅什が武威の城を出て、長安の地に入ったのは401年12月20日とある。新皇帝・跳興みずからが出迎え、鳩摩羅什を国師と仰ぎ、彼の翻訳を補助するために五百人(多い時は二千人)の僧侶を配置した。以来409年8月に亡くなるまでの約八年間、鳩摩羅什は膨大な量の仏典をサンスクリット語から漢語に翻訳した。






2024年11月13日水曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(13)

 シルクロードのものがたり(42)

インドに5年、セイロンを経由して船で青州(山東半島の青島)に漂着す


ホータン(和田)を出発して、パミール高原を越えた後も、〇〇国・△△国・××国など、法顕の記録にはやたら小さい国の名前が出てきて閉口する。

これについて、司馬遼太郎との対談で陳舜臣が、「村より小さい国」と題してユーモラスに語っている。NHK取材班に同行して西域各地を旅した昭和50年代の話であろう。

「今度の旅行から帰ってきて、旅行記を書くんで調べていたら、通ったところの一つに ”昔ここは西夜国” と『漢書』に出ていた。戸数が350。そこには52の国名が出てくるんですけど、これはしめた、これが西域最小の国にまちがいない、そう書いてやろうと思った。だけど一応念のためと思って調べたら、まだちっちゃいのがある。戸数41戸の国もある。烏貧言離国(うひんげんりこく)というものものしい国名をもっていた」

たしかに、法顕や玄奘の旅行記だけでなく、「史記」「漢書」を含め中国の古い史書に書かれた西域の数多くの国名には閉口させられる。あまりこだわらないで、このような村があるといった感じで、軽い気持ちで読み進んでゆくのが良いと思う。


このあとの法顕の旅については、「大幅に端折(はしょ)り」、要点だけを紹介する。

下記の地図が、法顕が長安を出発して12年後に中国に帰るまでの旅のルートである。法顕と青年僧の道整(どうせい)がサーへト・マヘート(祇園精舎の地)にたどりついたのは、405年の秋、法顕70歳のときである。

その後、地図にあるように、二人はインド北部をあちこち歩いているが、2年間をパータリプトラ(赤いしるしをつけた)に滞在している。ここは、古代アショカ王の時代に首都であったところで、ブッダが悟りを開いた場所でもある。また後世、玄奘三蔵が学んだナンダーラ大学(僧院)もここにあった。この地で法顕は熱心に梵語(サンスクリット語)を学んだと伝えられるが、いくら法顕でも70歳を過ぎての外国語の学習は骨が折れただろうと同情する。しかし、その好奇心・努力には感服する。

青年僧の道整と別れたのはこのパータリプトラである。「この地にとどまり、命が尽きるまで修行に努めたいと思います」と言う道整に、「それもよろしかろう。ただ私は中国にもどります」と答えている。

その後、法顕は一人で、経典などの荷物があったので何人かの現地の人夫が同行したと思うが、ガンジス川を下り、タームラリプティという港町に着いた。当初の法顕の考えは、ガンジス川河口のこの港町から中国に向かう商船を見つけるつもりだったようだ。

この町で、法顕は一人の中国人商人と巡り合う。どういういきさつか判らないが、法顕はこの中国人の船でセイロンに向かった。その後1年以上セイロン島に滞在している。

その中国人の世話になり、集めた経典を大船に乗せてセイロンを出帆した。船員と乗客を合わせて200人、救命ボート1隻を船尾につないであったというから、大きな船である。中国の船ではなく、アラビア船員の船もしくは海洋民族のクメール人(カンボジア)が運航する船であった可能性が高い。余談だが、カンボジアのプノンペン・ベトナムのホーチミンの沖のメコン川下流の海中から、現在でもBC100-AD200年頃のローマの金貨が時おり発見されるという。紀元前から、ローマと東南アジア・中国を結ぶ「海のシルクロード」があったようだ。

この船は、途中でスマトラ島のジャンビ(パレンバンの北方)に寄港している。この地に5ヶ月滞在して、別の中国人の支援を得て、別の大船に乗り換えて中国に向かった。「この大船にも200人ばかりの人が乗り50日分の食料が用意されていた」と法顕は記録している。

この船は中国南部の広州を目指していたのだが、航海術の未熟な時代である、風雨にほんろうされながら、結果的には中国北部の山東半島に漂着した。

412年7月14日のことである。法顕は77歳であった。






2024年11月6日水曜日

みちのく一人旅(4)

 岩手県の田頭(でんどう)城跡、20年後の訪問

翌朝、ご夫妻に大湊駅まで車で送っていただいた。このとき山崎医師が3本の万年筆をくれた。1本はペン先を曲げた極太文字や絵の描ける万年筆、2本は万年筆を太文字のボールペンに改造したものだ。このボールペンがとても書きやすい。以来、ブログなどの原稿用紙の下書きにはこれを使っている。私にはとてもできない芸当だが、バイク修理工場主の山崎医師にはたやすいことのようだ。

50年前の本も嬉しかったが、今回いただいた筆記用具も大変ありがたい。とても書きやすいので、執筆意欲がさらに高まりそうだ。


大湊駅を出発した電車は、右手に陸奥湾を見ながら南下する。八戸駅で新幹線に乗り換え盛岡駅で降りる。盛岡駅からローカル線で北上して8つ目の大更(おおぶけ)駅近くにある田頭城跡を訪問するためだ。この城跡については、「岩手県の古城跡(田頭城)」という題で、2019年5月にこのコーナーで紹介した。

城跡を再訪したい気持が2割ほど、あとの8割はあの時のタクシー運転手さんに会って、20年前に渡しそびれた1万円のチップを渡したいとの気持ちだった。1度会っただけの運転手さんで、この方の名前はわからない。会えないにしても、彼の消息はつかめるのではないか。そういう気持ちが心の中にあった。

正午過ぎに盛岡駅に着いた。以前と同じくローカル線で啄木のふるさと渋民駅経由で大更(おおぶけ)駅に向かおうとしたら、次の電車の出発は午後4時過ぎだという。これには驚いた。帰りの電車はいつになるやらわからない。20年の間にローカル鉄道の便数はずいぶん減っている。「バスだと1時間後に駅前から出ますよ」と駅員さんが教えてくれる。バスだと50分と鉄道より時間がかかるが、違った景色が見られるのでバスの旅も楽しい。

大更駅前でバスを降りて、タクシー乗り場に向かう。2台のタクシーが停まっている。20年前に、「ここでタクシー運転手をしているのは私だけですよ」と私と同い年だという運転手は言っていたが、2人のタクシー運転手は共に50歳前後に見える。先頭の運転手に声をかけて聞いてみるが、「知りませんなあ」と愛想がない。

2人目の運転手はその方を知っていた。「ああ、その人なら数年前にお百姓に専念するといって会社を辞められましたよ。大きなお百姓さんでしてね、時々この駅前で見かけますよ。今はちょうど稲刈りで忙しそうですよ」とおっしゃる。「そうか、お元気なんだ!」と私は嬉しくなった。このタクシーに乗り田頭城跡に向かう。6ー7分で到着する。

20年前の運転手は、嬉々としてまるで従者のように城跡のてっぺんまで同行してくれた。私のことをこの城の若君の子孫だと思い込んでいる運転手は、私とは400年前の因縁がある身内だ、と思ってくださったからであろう。今度の運転手は、いわば他人だ。「ここで待っていますから」と城跡の下の駐車場にタクシーを停めた。

1人で50メートルほどの山城に登る。20年前と異なるのは、「ずいぶん長い滑り台」と「公衆便所」が造られているだけで、それ以外は何も変わらない。訪問客は私以外はだれもいない。八幡平市は観光名所にしたいらしいが、どうもそうでもないらしい。25分ほどで降りてきた。「桜の時期にはけっこう観光客がいるんですがねえ」と運転手は言う。

大更駅に着いた。待機料金2000円ほどを加えた料金が提示されたので、チップは払わなかった。それでも親切な人で、タクシーから降りてきて、「電車が早いかな、それともバスが早いかな?」とそれぞれの時刻表を調べてくれている。結局、40分待ちの電車で盛岡駅に向かった。


20年前の運転手さんは、お元気で400年以上続いているご先祖様の田圃で稲作に専念されていることがわかった。よかった、よかった。今年はお米の値段が高いから、米農家さんには良い年であろう。この岩手県への小旅行も愉快な旅であった。