2024年11月13日水曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(13)

 シルクロードのものがたり(42)

インドに5年、セイロンを経由して船で青州(山東半島の青島)に漂着す


ホータン(和田)を出発して、パミール高原を越えた後も、〇〇国・△△国・××国など、法顕の記録にはやたら小さい国の名前が出てきて閉口する。

これについて、司馬遼太郎との対談で陳舜臣が、「村より小さい国」と題してユーモラスに語っている。NHK取材班に同行して西域各地を旅した昭和50年代の話であろう。

「今度の旅行から帰ってきて、旅行記を書くんで調べていたら、通ったところの一つに ”昔ここは西夜国” と『漢書』に出ていた。戸数が350。そこには52の国名が出てくるんですけど、これはしめた、これが西域最小の国にまちがいない、そう書いてやろうと思った。だけど一応念のためと思って調べたら、まだちっちゃいのがある。戸数41戸の国もある。烏貧言離国(うひんげんりこく)というものものしい国名をもっていた」

たしかに、法顕や玄奘の旅行記だけでなく、「史記」「漢書」を含め中国の古い史書に書かれた西域の数多くの国名には閉口させられる。あまりこだわらないで、このような村があるといった感じで、軽い気持ちで読み進んでゆくのが良いと思う。


このあとの法顕の旅については、「大幅に端折(はしょ)り」、要点だけを紹介する。

下記の地図が、法顕が長安を出発して12年後に中国に帰るまでの旅のルートである。法顕と青年僧の道整(どうせい)がサーへト・マヘート(祇園精舎の地)にたどりついたのは、405年の秋、法顕70歳のときである。

その後、地図にあるように、二人はインド北部をあちこち歩いているが、2年間をパータリプトラ(赤いしるしをつけた)に滞在している。ここは、古代アショカ王の時代に首都であったところで、ブッダが悟りを開いた場所でもある。また後世、玄奘三蔵が学んだナンダーラ大学(僧院)もここにあった。この地で法顕は熱心に梵語(サンスクリット語)を学んだと伝えられるが、いくら法顕でも70歳を過ぎての外国語の学習は骨が折れただろうと同情する。しかし、その好奇心・努力には感服する。

青年僧の道整と別れたのはこのパータリプトラである。「この地にとどまり、命が尽きるまで修行に努めたいと思います」と言う道整に、「それもよろしかろう。ただ私は中国にもどります」と答えている。

その後、法顕は一人で、経典などの荷物があったので何人かの現地の人夫が同行したと思うが、ガンジス川を下り、タームラリプティという港町に着いた。当初の法顕の考えは、ガンジス川河口のこの港町から中国に向かう商船を見つけるつもりだったようだ。

この町で、法顕は一人の中国人商人と巡り合う。どういういきさつか判らないが、法顕はこの中国人の船でセイロンに向かった。その後1年以上セイロン島に滞在している。

その中国人の世話になり、集めた経典を大船に乗せてセイロンを出帆した。船員と乗客を合わせて200人、救命ボート1隻を船尾につないであったというから、大きな船である。中国の船ではなく、アラビア船員の船もしくは海洋民族のクメール人(カンボジア)が運航する船であった可能性が高い。余談だが、カンボジアのプノンペン・ベトナムのホーチミンの沖のメコン川下流の海中から、現在でもBC100-AD200年頃のローマの金貨が時おり発見されるという。紀元前から、ローマと東南アジア・中国を結ぶ「海のシルクロード」があったようだ。

この船は、途中でスマトラ島のジャンビ(パレンバンの北方)に寄港している。この地に5ヶ月滞在して、別の中国人の支援を得て、別の大船に乗り換えて中国に向かった。「この大船にも200人ばかりの人が乗り50日分の食料が用意されていた」と法顕は記録している。

この船は中国南部の広州を目指していたのだが、航海術の未熟な時代である、風雨にほんろうされながら、結果的には中国北部の山東半島に漂着した。

412年7月14日のことである。法顕は77歳であった。






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