シルクロードのものがたり(44)
法顕と鳩摩羅什(2)
さて、法顕の話にもどる。
法顕は苦難の旅をしながら天竺におもむき、危険な航海の末に多くの経典を中国に持ち帰った。しかし、これらの経典の多くはすでに鳩摩羅什の手によって漢語に翻訳されていた。
最澄・空海など唐への留学僧の場合も、現地で修業して仏教の奥儀を習得すると同時に、いかに多くの価値ある経典を我が国に持ち帰るかが重要な使命であった。このことはインドに向かった中国僧も同じである。多くのサンスクリット語の経典を中国に持ち帰り、漢語に翻訳することがとても重要だったのだ。「高僧伝」の鳩摩羅什37ページ、法顕13ページの差は、両者の人物の差だけではなく、翻訳した経典の分量にも関係があるのではないか、と法顕びいきの私は考えている。
北涼王・段業の保護を受けて、法顕が張掖に1年間滞在したことは以前に述べた。400年前後のことである。じつはこの時、鳩摩羅什は張掖より長安寄りの武威という町で、呂光に保護軟禁されて、すでに10年以上が経っていたのである。鳩摩羅什の軟禁のことは極秘とされていて、法顕はまったく知らなかった。あるいは、法顕がもし武威に滞在していたら、現地の僧たちからこの秘密の噂を聞いた可能性はある。
地図を見るとわかるが、通常は長安から張掖(ちょうえき)に行く場合は武威(ぶい)を経過するが、このとき法顕はバイパスを通っていて、武威には立ち寄っていない。もちろん法顕は、自分より年下の、鳩摩羅什という名僧の存在は充分知っていた。
作家の陳舜臣は、「もしこのとき、法顕と鳩摩羅什が武威で会っていたら、法顕の仏典に関する疑義はほとんど解けていたであろう。そして鳩摩羅什の書庫にあるおびただしい仏典を見て狂喜したであろう。もしかしたら、わざわざ天竺へ行く必要はないと、インド行きを中止したかも知れない」とまで言っている。これについては、仏教に無知な私はよくわからないし、コメントもできない。
ともあれ、鳩摩羅什はおびただしい量の経典を翻訳した。約300巻の仏典を漢訳し、玄奘とともに、中国における「二大訳聖」といわれている。
「三蔵法師」という言葉がある。仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三つに精通した僧侶に対する尊称である。のちに、法顕・玄奘・義浄(ぎじょう)を含め、何人もの三蔵法師が中国に生まれるが、最初にこの尊称を受けたのは鳩摩羅什であるらしい。
日本においては、天皇が名僧に贈る「大師」という尊称がある。現在までに二十五人が与えられたと聞く。我が国最初の大師は、下野国出身の僧・円仁で、866年に清和天皇から「慈覚大師」の尊称を賜った。「弟子に贈るなら、その師匠の最澄にも、、、」という話になったらしい。同じとき、最澄は「伝教大師」の尊称を賜った。両人とも没後である。空海の「弘法大師」は、その55年後で、921年に醍醐天皇から賜った。
ところが、現在の日本では「お大師さま」といえば「弘法大師・空海」を指す。中国、日本において三蔵法師といえば、一般的に「玄奘三蔵」を指す。これらからして、玄奘と空海という二人の人物は、だれもが感服する「群を抜いた人物」だったのであろう。
私は、「般若心経・はんにゃしんぎょう」は玄奘がはじめて梵語から漢語に翻訳したと思い込んでいたのだが、最初にこれを翻訳した人物は鳩摩羅什だと最近になって知った。じつは、この「般若心経」は今までに八人の中国僧によって、漢語に翻訳されている。
一番目が鳩摩羅什訳 魔訶般若波羅蜜多大明呪経
二番目が玄奘訳 般若波羅蜜多心経
三番目が義浄訳 仏説能断金剛般若波羅蜜多経
四番から八番は省略する。
三番目の義浄(ぎじょう)という人も傑物で、玄奘より33歳若い(635-713)。法顕や玄奘のあとを慕い、往復路ともに海路で天竺に行き、玄奘が学んだナーナンダ大学(僧院)で10年以上勉強している。
私の家は曹洞宗なので、本山は越前の永平寺である。法事の時にはお坊さまと一緒に、この般若心経を大声を張り上げて唱える。262文字の中身は玄奘三蔵さまの翻訳と承知しているが、不思議に思うことが一つある。それは私の手元にある永平寺版には、「魔訶般若波羅蜜多心経」と書かれている。もしかしたら、この「魔訶・まか」の二文字は鳩摩羅什の翻訳の一部をちょうだいして、玄奘さまの翻訳に付け加えたのであろうか?ご存じの方がおられたら教えていただきたい。
この般若心経というお経は、いままでに日本人が読んだ文章の中では群を抜いて多い気がする。源氏物語や枕草子などとは比べ物にならない。司馬遼太郎や松本清張も真っ青になるくらい、般若心経は多くの人に読まれている。超ベストセラーといえる。
下の写真は、江戸時代に文字の読めない人向けに作られた般若心経である。絵だけで表示してある。ご飯を炊く釜を逆さにして「まか」と読ませ、般若のお面で「はんにゃ」と読ませ、人がものを食べる姿で「くう」と読ませるなど、苦心惨憺のあとが見えて興味深い。
このように、法顕が中国に帰国した時には、彼の持ち帰った経典の多くが、すでに鳩摩羅什の手によって漢訳されていた。それでも法顕は、持ち帰った経典の翻訳作業をコツコツと続けた。文化勲章を受章した有名なインド哲学者・仏教学者の中村元は、「ブッダの発病後の描写においては他のどの諸本より法顕本がもっとも原典に近い」と法顕の翻訳を高く評価されている。
法顕の没年については、八十二歳説と八十六歳説とがある。その晩年、弟子たちは、稀有な体験をした師匠にその旅行譚を聞かせて欲しいと度々せがんだという。快く旅の思い出を語ったあと、法顕は最後に、「私は命を必死の地に投じて、万に一つの希望を達したのです」とかならずつけ加えたといわれる。自己の完遂したこの体験に、大きな満足感を持っていたと思われる。
絵で表示された般若心経 |
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