2024年11月20日水曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(14)

 シルクロードのものがたり(43)

法顕(ほっけん)と鳩摩羅什(くまらじゅう)

先述したように、法顕が船で山東半島に帰着したのは412年7月14日である。鳩摩羅什(350-409)は、この時すでに中国で没していた。この人には344-413年説もあるが、ここでは先の生没年を採る。

今までポツリポツリとこの鳩摩羅什の名前が出てきたが、ここで整理して、この人のことを紹介したい。「高僧伝」の冒頭に次のようにある。

「鳩摩羅什、中国名は童寿(どうじゅ)は天竺の人である。家は代々宰相であった。羅什の祖父の達多(だった)は才気抜群、名声は国中に鳴り響いた。父の鳩摩炎(くまえん)は聡明で気高い節義の持ち主であったが、宰相の位を継ごうとする時になって、なんとそれを断って出家し、東のかた葱嶺(そうれい・パミール高原)を越えた。亀茲(きゅうじ・クチャ)王は彼が世俗的な栄誉を棄てたと聞いてとても敬慕し、わざわざ郊外まで赴いて出迎え、国師となってくれるよう要請した。

王には妹がおり、年は二十になったばかり。頭が良くて聡明鋭敏。そのうえ体に赤いほくろがあって、智慧のある子を産む相だとされ、諸国は嫁に迎えようとしたけれども、どこにも出かけようとはしなかった。ところが摩炎を見るに及んで、自分の相手はこの人だと心にきめた。王はそこで無理に摩炎に迫って妹を妻とさせ、やがて摩什を懐妊した」

これだけで、鳩摩羅什が名門の家系に生まれた、ただならぬ人物だとわかる。七歳になると母親と共に出家して、各地に留学したり名僧のもとで修業し、二十代でその名声ははるか東方の中国(前秦)の皇帝・符堅(ふけん)の耳にまで入った。


この当時の中国政治の変遷はめまぐるしい。その後の16年間、鳩摩羅什はこの中国政治の動乱の人質になったといえる。

381年、前秦の皇帝・符堅の命を受けて、西域に派遣された将軍・呂光(ろこう)は亀茲(クチャ)城を攻略して鳩摩羅什の身柄を確保した。ところが前後して「淝水の戦い」で前秦が東晋に大敗して、符堅はあえない最期をとげる。呂光は2万頭のラクダに乗せた財宝と7万の将兵と共に鳩摩羅什を伴って涼州に帰り、386年、武威を拠点として後涼国を建国した。しかし、401年5月、後秦の跳興(ちょうこう)が軍勢七千騎を派遣して後涼軍を打ち破り、河西諸国一帯は、後秦の跳興の支配するところとなった。

すなわち、鳩摩羅什は36歳から52歳までの16年間、軟禁のかたちで武威の城内にとどめられた。ただし、その身柄は丁重に扱われている。呂光からは国政・軍事の顧問として相談を受けた。言葉を変えれば友人のような形で遇されている。外出の自由を失っただけで、場内では普通の生活をしている。この間に、中国語を完璧に習得したといわれる。

「高僧伝」によると、鳩摩羅什が武威の城を出て、長安の地に入ったのは401年12月20日とある。新皇帝・跳興みずからが出迎え、鳩摩羅什を国師と仰ぎ、彼の翻訳を補助するために五百人(多い時は二千人)の僧侶を配置した。以来409年8月に亡くなるまでの約八年間、鳩摩羅什は膨大な量の仏典をサンスクリット語から漢語に翻訳した。






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