2024年12月16日月曜日

ハミウリ(哈密瓜)の話(3)

 シルクロードのものがたり(47)

ハミウリ(哈密瓜)の話(3)

陳舜臣の「シルクロード旅ノート」を読んでいて、はっとした。私の大好きな人物の名前が目に飛び込んできたからだ。阮籍・陶淵明・李白・杜甫・陸游など中国の横綱級の詩人が、この人を敬慕して詩に書いている。ただ、散文の中でこの人について語っているのは、私が知る限り今までに二人しかいない。

司馬遷は「項羽本紀・こううほんぎ」と「蕭相国世家・しょうしょうこくせいか」で、この人物について記している。今一人、司馬遼太郎は「項羽と劉邦」に中にこの人物を登場させている。陳舜臣が三人目である。私はこの人物に惚れ込んでしまって、2年ほど前に「小説・東陵の瓜」と題し、このコーナーで紹介した。この人物の名前は、東陵候・召平という。


陳舜臣は次のように書いている。

18世紀半ばに、新彊に左遷された紀昀(きいん・1724-1805)の「烏魯木斉・ウルムチ・雑詩」の中に、次のような詩がある。

種(しゅ)は東陵子母(とうりょうしぼ)の瓜に出つ”

伊州(いしゅう・哈密のこと)の佳種(かしゅ) 相誇る無し

涼(りょう)は冰雪(ひょうせつ)と争い 甜(てん)は蜜(みつ)と争う

消(しょう)し得たり 温暾顧渚(おんとんこしょ)の茶

秦の東陵候であった召平は、秦がほろびた後、故郷の長安の城東で瓜をうえ、それがたいそう美味であったという。子母とは繁殖を象徴することばである。その種が伝わってできたように、つめたく、また甜(あま)い。それにあたためた顧渚の茶(浙江産の銘茶)を飲めば消化もよろしいのである。

以上は陳舜臣の筆による。


この紀昀(きいん)という人が読んだのは、阮籍(げんせき)の詩に間違いあるまい。紀昀は「召平の瓜の種が伝わってきたかのようだ」と言っているが、私は「西域のハミウリを漢代初頭に、召平は長安の地でつくっていた」と考えている。魏の阮籍(竹林七賢人の筆頭・210-263)は次のように詠(うた)う。

昔聞く 東陵の瓜 近く青門の外に在り

畛(あぜ)に連なり 阡陌(せんぱく)に到(いた)り 

子母(しぼ)相鉤帯(あいこうたい)す

五色 朝日(ちょうじつ)に耀(かがや)き 嘉賓(かひん)四面より会(かい)せりと

昔こんな話を聞いたことがある。東陵候が瓜をつくった場所は、長安の都の青門の近くだった。あぜ道からずうっと東西・南北の道まで、大きな瓜、小さな瓜がつながり合っていた。その瓜は、朝日をうけて五色に輝き、立派な客が四方から集まってきたという。


召平の瓜畑では、五色の瓜が朝日を受けて輝いていたという。そして、「季布に二諾なく」のあの季布(きふ)が、「中国史上群を抜く名宰相」といわれたあの簫何(しょうか)が、召平のあばらやに瓜を買いに来たのだという。秦が滅びて東陵候の爵位を失った召平は、故郷の長安郊外に帰り農夫になって瓜を作った。そして楽しく充実した人生を送り、百歳近い長寿を保ち、死んでいった。これを多くの人々が讃え、また羨ましがったようである。日本でも山水画の中に、かっぱを着た老人が畑で農作業をしている絵が掛け軸がある。召平がウリ畑の手入れをしている姿である。

二千年前、長安郊外の畑で、召平がこのハミウリをつくっていたのは間違いないと、田頭は考えている。そして、召平の真似をして、郷里広島県の畑で西瓜やまくわ瓜をつくっているのだが、なかなか良いものが収穫できない。

白く見えるのがハミ瓜 ウズベキスタン 提供
辻道雄氏








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