シルクロードのものがたり(49)
ずいぶん古い、中国人の玉(ぎょく)への信仰
「8000年前の中国の遺跡から玉器が発見された」と聞いてびっくりしたのだが、冷静になって考えれば、これは別に驚くことではない。8000年前の新石器時代には、世界中の人々が硬い石を割り、削り、磨いて、斧(おの)・包丁(ほうちょう)などの生活用品としていた。また、鏃(やじり)・槍(やり)・刀などをつくり、狩猟や武器に使っていた。
青森県・三内丸山の縄文時代の遺跡からは、北海道産の黒曜石の斧や鏃(やじり)が数多く出土している。糸魚川産の翡翠(ひすい)製品もたくさん出ている。「石器時代からの流れ」の中で考えれば、高級石器である「玉製品」が古くから珍重されていたのは、自然なことだと思われる。
石器時代には、世界中の人々が石を加工して生活用品として使っていた。その中にあって、唯一、古代中国人だけが「玉には禍(わざわい)を遠ざける神秘的な霊力がある」と信じていたようである。硬くて光沢のある玉に不死の生命力や霊の力があると感じ、玉を身につけることでその霊力を借りようとしたのであろうか。
1928年、西安から南東400キロに位置する殷墟の墓から、1928点の出土品が見つかり、このうちなんと4割に近い756点が玉器であった。この墓は、殷王朝22代の王・武丁(ぶてい)の妃(きさき)である婦好(ふこう)という人のものであると、青銅器の銘文により確定されている。この女性は、単に武丁の妃の一人との認識でははかることのできない大物女性である。
この婦好という女性は、祭祀をとりおこない占いを得意とした。また自ら一万三千の兵を率いて周辺の敵を征伐した。古代の日本でいうと、卑弥呼(ひみこ)と神功皇后(じんぐうこうごう)を合わせたような女傑であったらしい。酒池肉林におぼれて滅亡した殷朝最後の30代・紂王(ちゅうおう)が死んだのはBC1048年だから、この婦好(ふこう)はその200年ほど前の人だと考えられる。今から3300年ほど昔の人である。
材質を分析したところ、その大部分が西域のホータンやヤルカンド(ホータンの北西300キロ・タクラマカン砂漠の最西端)のものだとわかった。すなわち、これらは崑崙(こんろん)産の玉であったのだ。
これより1000年のちの漢代のお墓からの出土品について紹介したい。1968年に河北省・満城(まんじょう)県の満城漢墓(まんじょうかんぼ)から出土した金縷玉衣(きんるぎょくい)は非常に豪華なものである。この墓は、前漢の武帝の異母兄である中山靖王・劉勝(ちゅうざいせいおう・りゅうしょう)とその妻のなきがらを葬ったもので、二人は金縷玉衣に包まれていた。劉勝の玉衣は、2498枚の玉片一枚一枚の四隅に孔(あな)をあけ、金の糸でつつ”りあわせたもので、金糸だけで1100グラムにおよんでいる。
この玉の成分を分析したところ、これらもホータン産の玉と同じであった。玉衣とは、これで包めば遺体は完全に保存できるという信仰にもとつ”いており、玉崇拝の極みともいえる考えである。
これらの事実から考えると、ユーラシア大陸を東西に通じるシルクロードと呼ばれるこの道は、「絹(シルク)の道」よりも「玉の道」としての歴史のほうが、より古いような気がする。西から来るのが「玉」、西に行くのが「絹」という時代が何千年も続いたと思われる。
漢代の玉衣 |