シルクロードのものがたり(51)
玉壁(ぎょくへき)の話
『中国玉器発展史』は、8000年前の玉斧(ぎょくふ)からはじまって、19世紀の清朝に至るまでの多種の玉製品を紹介している。呼び方は色々とあるが、斧(おの)・耳飾り・首飾り・祭祀用の器・亀や鳥の置物・玉人といわれる人間の像・象や怪獣の置物・儀仗用の戈(ほこ)や刀・帯留めや玉杯などが、秦漢時代までにつくられている。
隋唐以降は、玉冊(ぎょくさく)という玉の板に文字を刻んだもの・観音像・舎利を安置する玉石棺のなども作られている。宋代以降は、動物や魚の置物・玉の印鑑・筆を洗う器など、工芸品が多い。台北の故宮博物院にある有名なコオロギがとまっている白菜や、豚の角煮などの工芸品は清朝時代の作品だが、これらも玉で作られている。私も若いころ三度ほど台北の故宮を訪問したが、コウロギの白菜には感嘆した。
本当かどうかわからないが、その時案内してくれた友人の台湾人の船長は、「膨大な財宝が倉庫にある。年二回新しいものを展示する。全部を展示するのに50年ほどかかる。年二回毎年台北に見学に来たとして、全部を見終わるのは田頭さんが80歳過ぎた頃だ」と説明してくれた記憶がある。
このような流れの中で、新石器時代から清朝に至るまでの8000年間、一貫して作り続けられてきた不思議な玉の製品がある。「玉壁・ぎょくへき」という。
玉をうすく輪のかたちに磨きあげたもので、これを作るには巨大な玉(ぎょく)の原石を必要とする。同時に、これを削り磨くためには膨大なエネルギーと時間を必要とする。まんなかに丸い穴がある。もともとは、「日月を象徴する祭器として祭礼用の玉器のうち最も重要なもの」とされたらしい。それが、春秋戦国時代あたりから、長寿・権力・財力などの幸運をもたらすものとして珍重されたようである。(各時代の玉壁の写真を下に添付する)
出典を忘れたので記憶を頼りに紹介すると、中国の古い本に次のように書かれていた。
「高級な玉壁は部屋に置いておくと、夕方にはぼおっと光を放ち部屋が明るくなる。夏は部屋が涼しくなり、冬には部屋が暖かくなる」 まるで、蛍光灯と冷房・暖房のエアコンを兼ねた電気製品のようである。
蛍光物資の入った蛍石(ほたるいし)などの鉱物であれば、夕方部屋で光を放つことはありうる。でも、それにより部屋が涼しくなったり暖かくなるとは考えにくい。玉は冷たいので夏には少し涼しくなったのだろうか。冬に外に出して太陽にあてれば熱を得る。夕方これを部屋に入れれば少し暖かくなったのかな?とも思うが、信仰だから、「気のせい」の部分が多かった気がする。
『淮南子・えなんじ』は、漢の武帝のころ、淮南王・劉安(えなんおう・りゅうあん)が学者を集めて編纂した思想書だ。この中に、「聖人は尺の玉壁を貴ばずして、寸の陰を重んず」という言葉がある。「賢人は直径一尺もある玉壁を愛することなく、寸陰の時間を惜しんだ」との意味である。この当時、人々が玉壁を珍重したことがこれから分かる。
中国の戦国時代、趙(ちょう)の恵文王(けいぶんおう)の有名な話を紹介したい。この人の弟が、食客数千人を集めていた、あの有名な平原君(へいげんくん)である。
この恵文王は「和氏の壁・かしのへき」というすぐれた玉壁(ぎょくへき)を持っていた。西の強国である秦の昭王(しょうおう・始皇帝の曾祖父)はこれが欲しくてたまらない。秦の領内にある15の城(町・領土)とこの玉壁を交換して欲しいと申し出てきた。秦は強さにモノをいわせて「和氏の壁」を取り上げるだけで、15の城を渡すつもりはないのではあるまいか、と恵文王もその側近たちも懸念した。そうかといってこの申し出を無視すれば、秦は兵力にものをいわせて趙に侵攻してくるかもしれない。
どうしよう、どうしよう、と趙の宮廷内部は思案に暮れた。このとき使者として秦に派遣されたのが、藺相如(りんしょうじょ)という人物である。彼は「和氏の壁」を持って秦に向かう。出発のとき相如は恵文王に言った。「秦王が15の城を本当に趙に渡すなら、この壁を秦王に渡します。城を入手できないなら、壁を完う(まっとう)して趙に持ち帰ります」
趙(ちょう)側が懸念した通りだった。秦王はああだこうだと言って、約束の15の城を渡そうとしない。強さにモノをいわせて、玉壁だけを取り上げる魂胆だったのだ。これを見破った藺相如は、敵ともいえる秦の宮殿の中で、秦の昭王を相手に命がけのかけひきをおこなう。(この話は『史記列伝・藺相如列伝』の中にある。列伝の中では長い文章だが、とても面白い。興味ある方は司馬遷の原文を読まれると良い)
命を危険にさらしながら、藺相如はこの玉壁を取り上げられることなく、無事に趙の国に持ち帰った。彼の抜群の交渉力の結果である。その後も秦が武力で趙に侵攻することはなかった。あっぱれ、あっぱれである。すなわち、「壁を完うする・へきをまっとうする」ことができたのである。現在日本でも使われている「完璧・かんぺき」という言葉はこの故事に由来する。
この藺相如という人は故事逸話の多い人で、「刎頸の交わり・ふんけいのまじわり」という言葉もこの人に由来する。この話も『史記・欄相如列伝』の中にある。道元禅師は藺相如が好きだったようで、『正法眼蔵随聞記』の中にも、この「完璧」の話が紹介されている。
石器時代から周の時代 |
春秋戦国時代 |
秦漢時代から宋清時代 |
0 件のコメント:
コメントを投稿