シルクロードのものがたり(50)
玉門関(ぎょくもんかん)は玉(ぎょく)の密輸入防止のために造られた
殷代や漢代の王族のお墓から大量の玉が出土していることからして、当時の中国の貴族や高級官僚、あるいは裕福な庶民たちが、この玉に憧れ、これを欲しがったのは間違いない。
人々が欲しがる嗜好品に税金をかけてこれを国の収入にすることは、古代から為政者が常に考えたことである。21世紀の日本でも行われている。酒もタバコもやる私などは、庶民の一人としてかなりの税金を支払っているわけだ。玉は嗜好品ではないが、殷・周・春秋戦国・秦・漢の王様や皇帝が、これに税を課すことを考えたのは当然のことである。
現在残っている玉門関の遺跡は漢代と唐代に造られたものらしい。ただこれは一つの象徴的な建造物であって、殷代にも周代にも、玉の密輸入を取り締まる関所があったと考えるのが自然である。これに税を課して国庫収入を増やす。野放図な玉の流入を防ぎその価値の暴落を抑える。この二つが目的であった。素晴らしい珍品を見つけた時には、「これは王様用だ」と言って関所の役人が取り上げた。これをうやうやしく王様に献上して、その役人はご褒美をもらったという光景も想像できる。
崑崙の玉が、当時どの程度日本列島に入ってきたかは、私は知らない。三種の神器の一つである「八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま」は、だれも見たことがないので、どのようなものかは誰も知らない。「名称から推察して、大きな勾玉とも長い紐に繋いだ勾玉ともされる」と、どこかで誰かが解説していた。もしかしたら、崑崙の玉でつくったものかも知れない。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の像や、尊の肖像画が描かれた紙幣を見ると、勾玉(まがたま)らしきものを身につけている。日本の勾玉の多くは翡翠(ひすい)・めのう・水晶・琥珀(こはく)などでつくられているが、その多くは日本列島で産出されたものらしい。中には少量の崑崙(ホータン)産の玉があったかも知れない。「玉に対する信仰」という精神文化は、この当時中国大陸から日本列島に入ってきたのは間違いない気がする。
現在の中国経済は下降気味だが、10年ほど前には、ホータン産の原石を加工した高級な玉製品には5億円・10億円の値が付き、中国の富裕層が競って購入したという。美しい石を集めるのを趣味にしている日本人に会ったことはあるが、何億円も払って玉を買ったという日本人は聞いたことがない。日本武尊から1700年。その間に、日本人は玉への信仰心を失ったように思える。別に悪いこととは思わない。
古代から漢代初期までは、中国人はこの玉がホータン産であるとは認識していなかったらしい。楼蘭(ろうらん)で産出されていてると考えていたようである。楼蘭に行けばこの玉が買えたからである。中国人がこの玉がホータンで産出されたものだと認識したのは、漢の武帝の御代に張騫が西域に遠征した後である。ホータンの南に連なる山々を、当時の中国人は「南山」と呼んでいた。この山脈に「崑崙・こんろん」という名前を付けたのは、漢の武帝だといわれる。
漢の武帝がこの山に「崑崙」という名前を付けて二千年後、中国の東方にある列島の若者たちは自分たちの寮歌にこの山のことを詠った。明治38年の第三高等学校の「逍遥の歌」の三番に次のようにある。崑崙(こんろん)という言葉にロマンチックな響きがあるからだろうか。武帝は夢にも思っていなかったに違いない。
千載(せんざい)秋の水清く 銀漢(ぎんかん)空に冴(さ)ゆる時
かよへる夢は崑崙(こんろん)の 高嶺(たかね)ここなたゴビの原
ホータン産の玉の原石を楼蘭まで運んだのは、ホータンや楼蘭の商人たちだが、この地域で彼らを支配していたのが「月氏・げっし」である。中国の文献には、美しい玉を「禺氏・ぐうし・の玉」と書いてあるが、禺氏とはすなわち「月氏」のことである。
匈奴(きょうど)に追われて西方に移住するまで、モンゴル平原南部から河西地方・ホータン地方にかけての広大な西域一帯に勢力を張っていた民族らしい。この月氏が、中国に大量の玉を運び、中国はその見返りとして膨大な絹を月氏に与えた。そして月氏は、西トルキスタン・ペルシャ王国などを経由して、この絹をはるか西方のローマまで運んだ。この当時、すでにローマには中国産の絹の市場があったという。そのため月氏は、西方の国の人々からは「絹の民族」としてとらえられていたという。
白玉河で玉を探すホータンの人々 |
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