2025年11月4日火曜日

【トルファン】玄奘と〇〇将軍

 シルクロードのものがたり(79)

もう一度、慧立の『玄奘三蔵伝』の記述にもどる。

「ときに高昌王の使者が伊吾に滞在していた。彼はこの日、高昌国に帰ろうとしていたが、たまたま法師に会い、帰国して王に報告した」とある。

玄奘とこの使者はどのような会話をしたのか。そして使者は国王にどのような報告をしたのか。国王に同席してこれを聞いていた〇〇将軍は、この時どのような反応を示したのか?

常識的に考えれば、次のような会話だったと思う。

「あなたのお名前は?中国のどちらからおいでですか?これからどちらに向かわれるのですか?」と使者は玄奘に聞いた。これに対して、玄奘は次のように答えたはずだ。

「いなみは緯(い)、字(あざな)は玄奘、俗姓は陳(ちん)と申します。洛陽の生まれです。天竺に赴き仏教を学ぼうと思います」玄奘が語った言葉の中で重要なのは、「洛陽の生まれで、俗姓は陳・ちん」の部分だ。

使者から、玄奘の立派な風貌と、本人のこの答えを王のそばで聞いていた〇〇将軍は、はたと膝を打ち、喜色を浮かべたような気がする。この将軍は玄奘より30歳ほど年長であるから、玄奘の父親の世代の人である。「あの方の孫だ!あの方の息子に違いない!」と将軍はすぐにひらめいたのではあるまいか。

慧立は『玄奘三蔵伝』のはじめに、玄奘の祖父と父について、次のように記している。

「玄奘の祖父の康(こう)は学問に優れ、北斎に仕えて国子博士となり周南(河南省洛陽県)に封ぜられた。そこで子孫はこの地に住みついた。父の慧(え)は英傑で雅(みやび)やかであり、若い時から経学に通じていた。大柄で眉目(みめ)うるわしく、ゆったりした衣服を着て儒者の姿を好んだので、人々から郭有道(かく・ゆうどう・後漢の名士)のようだといわれた。性恬淡(てんたん)で出世しようともせず、そのうえ隋の政治も衰えてきたので、ついに古書の研究に専念することになった。州郡(地方政府)はしきりに官途につくことを勧めたが、彼はいつも病気を理由に就任しなかった。洛陽の識者はその態度を誉めそやした。彼には四人の男の子があり、法師はその四男であった」

玄奘の祖父の陳康(ちん・こう)と父の陳慧(ちん・え)は、洛陽の誰もが知る有名人であったのだ。


「王様、私はこの陳という若者の祖父も父も知っております。両人ともただならぬ立派な人物です。この若者を、なんとしてでも我が国に迎え入れようではありませんか!」〇〇将軍は国王・麴文泰に、このように興奮して熱っぽく語ったような気がする。老齢に入りつつあるこの将軍が、故郷の若者に会いたいと思う個人的な願望もあったかもしれない。しかし、それを悪く思ってはいけない。人間として当然の心情である。

慧立の記述の中に、「高昌王は貴臣を奔走させ、宿舎を整えて出迎えさせた。使者は伊吾に停まること十余日ばかり、王の心中を述べ、いんぎんに来てくれるよう拝請(はいせい)した」とある。

この文章だけでは、はっきりとは分からないが、「貴臣」とは〇〇将軍の可能性がある。もしかしたら、将軍自身が使者として伊吾国におもむき、玄奘に直接、高昌国に来てくれと頼んだ可能性をも感じる。