2025年12月18日木曜日

【ウルムチ・完】ウルムチ空港での大泣き少年

シルクロードのものがたり(88)

紅山公園のあと、新疆ウイグル自治区博物館を訪問する。ミイラ館以外にも旧石器時代以降の文化財が展示されていて興味深い。付属の本屋さんで『西域国実録』 という本の日本語版を購入する。その後、ランチを済ませて全員で空港に向かう。

飛行機の出発予定は16時10分だが、10人の集団なので、添乗員さんは常に時間に余裕を持って動く。出国手続を終え搭乗ゲート前に着いたのは14時30分だった。とりあえず待合の座席に座ったのだが、近くで小学校1、2年生くらいの少年が大声で泣いているのがうるさい。

搭乗開始までにまだ1時間以上もある。S君と、トイレに行ってそのあと何か土産物を買おうぜ、という話になり、空港内を散策する。ウルムチ空港は改築されたばかりで、広々とした近代的な飛行場で気持ちが良い。ただ、売店で売っている土産物はドライマンゴーや干し葡萄などの乾物が中心だ。パンダのぬいぐるみや皮で作ったラクダの置物も並んでいるが、これを買って日本に持ち帰っても喜んでくれる人はいない。ザクロジュースを飲んで、無料のマッサージ器の付いた椅子に座って時間をつぶし、40分ほどして搭乗ゲートにもどる。

なんと、あの少年がまだ大声を張りあげて泣いている。その泣きっぷりが、実にみごとというか迫力がある。僕は悲しいんだ、という態度を体全体で表現している。両親はそばに座っているのだが、我関せずといった態度で注意しようともしない。多くの中国人旅行者がその周辺に座っているのだが、誰一人として両親を責めようとする態度をとらない。むしろ親の味方をしているような感じがする。

少年がなぜ泣いているのか、我々のような外国人旅行者でも見当がつく。

おそらくパンダのぬいぐるみか何かを、買ってくれと親にせがんだに違いない。親は駄目だと言って応じなかった。甘やかされて育った一人っ子の少年は、大声で泣き叫べばきっと買ってくれると思っている。ここで買えば癖になると親は考え、買ってやろうとしない。周辺にいる中国人の大人たちも、両親の肩を持っている。このようなストーリーであろう。

「でもこの泣きっぷり、真に迫っていて迫力がありますねえ。大人になって役者になれば、中国を代表する一流の映画俳優になるのではないかしら」と隣に座る添乗員のO女史が小声でささやく。私も同感だ。この親子は我々と同じ上海行の飛行機に乗り込んだのだが、機内では少年の泣き声は聞こえなかった。子供ながらも、機内でいくら泣き叫んでも、もうぬいぐるみは買ってもらえないと悟ったのだろう。1時間以上も大泣きして疲れて寝たのかも知れない。


ウルムチ・上海間の飛行時間は5時間だ。羽田・上海間が2時間30分だから、中国は大きな国だと実感する。上海空港に着く前に、機内から外の景色を写真に撮る。出発が遅れたのですでに夜の10時に近い。それでも外の景色はネオンと電灯があかあかと光っている。中国経済は以前に比べると下降気味だと聞くが、この光景を見るかぎり、電力は極めて豊富だと実感する。中国経済はどこかで大きく反転するような気がする。

上海に一泊して、翌日羽田空港に無事帰国した。10人のツアー仲間はみなさん立派な方々ばかりで、気持ち良く旅をすることができた。世代的には60代から80代で、各人がシルクロードのことをよく勉強されていて、数多くのことを教えてもらった。

日本からの添乗員のOさん、中国でのガイドの高さん・余さん・エイさん、そして敦煌研究員の王さん、みなさん博学で同時に親切で大変お世話になった。良い方々との出会いでとても楽しい旅ができて心から感謝している。そして、中国各地のレストランやホテルでも、多くの現地の人々に親切に対応していただき、一度も嫌な思いをすることはなかった。


ウルムチ空港の大泣き少年

ウルムチ空港

上海の夜の景色





                        

2025年12月13日土曜日

【ウルムチ】林則徐の像

 シルクロードのものがたり(87)

旅の8日目、この日の夕方のフライトでウルムチから上海に移動する予定だ。朝一番でウルムチ中心部にある紅山(こうざん)公園に向かう。紅山は標高934メートルだというが、ウルムチ市街地の海抜が700メートルだから、我々の感覚では200メートル少々の小山に登るといった感じだ。ここからウルムチ市街地が一望でき、遠くは天山山脈が遠望できるという。

150メートルほどはバスで登る。広場があり、地元の人たちが太極拳をしている。広場から頂上までの50メートルほどは徒歩で移動する。朝の空気がすがすがしく、とても気持ちが良い。道教の寺らしき建物が見える。

頂上に着くと大きな石像が建っている。近くに寄ってみると林則徐の像だ。

アヘン戦争に敗北した清国は、南京条約により香港を英国に割譲する。欽差大臣(きんさだいじん・特命担当大臣)としてアヘン問題処理の最高責任者であった林則徐は、アヘン戦争が決着する南京条約が結ばれる以前に、新疆に左遷されている。

林則徐が対応に失敗したからではない。英国側の艦砲射撃や英陸兵の上陸作戦に恐れをなした北京の皇帝側近の高級役人たちが、対英強硬策を採る林則徐を批判して、彼の更迭を皇帝に進言した。皇帝・道光帝は弱気になって変心し、林則徐を解任して琦善(きぜん)という男を新たに任命した。琦善は広東に着くや、林則徐のやったことをことごとくひっくりかえした。すなわち、林則徐ははしごを外されたのである。

アヘン戦争の経過を語るのがこの小文の目的ではない。しかし、あの時、英国に怯えることなく林則徐の方針の下で清国が徹底的に対英抗戦を続けていたら、清国は英国に勝利したのは間違いないと私は考えている。

国の外交にとって、相手国との交渉よりも、自国内の一致団結がなによりも重要であることを、このアヘン戦争は日本人に教えてくれた。高杉晋作をはじめとする明治維新直前の日本人は、これを他山の石とした。そして日本は西欧列強の植民地になることから免れた。しかし、現在の日本で気になることがある。新たに就任した女性の内閣総理大臣の政策や言動に対して、以前の男性の内閣総理大臣が批判めいた発言を繰り返している。これは国家にとって害多くして、益は一つもない。怪しからぬことである。自分が男を下げるだけだ。おおいに慎んでもらいたい。


林則徐が左遷された場所は、ウルムチよりさらに600キロ西方のイリ(イーニン・伊寧)である。ロシア(現在はカザフスタン)との国境の地だ。彼はウルムチを経由してイリに入っているが、この間の移動に16日間を要している。現在の新疆ウイグル自治区の首府はウルムチだが、清朝末期においてはイリが新疆ウイグル地域の中心都市であったようだ。

林則徐のアヘン問題処理での果断な実行力には大きな拍手を送りたい。同時に、この辺境の地イリでの善政にも目を見張るものがある。特に水利事業に力を入れ、農業生産を飛躍的に向上させている。具体的には河川から農地への水路を数多く建設し、同時にトルファンで紹介した「カレーズ」(地下水路)を大量に造らせている。先に述べたように、カレーズは林則徐が発明したものではないが、イリ地方の人々は現在でもこれを、林公井(リンコンチン)と呼んでいるそうだ。林則徐の政治姿勢は、外敵・英国に対しては「タカ派」であり、自国住民に対しては「ハト派」であったように見える。立派な人物である。

林則徐の娘婿に沈葆偵(しん・ほてい)という人がいる。この人は明治7年(1897)、明治4年に起きた宮古島の島民が台湾に漂着して原住民に殺害された事件の解決にあたった清国側の代表者である。義父と同じく欽差大臣(台湾問題担当)として対応した。ちなみに、このときの日本側の代表者は大久保利通であった。

この人にかぎらず、林則徐の子孫で、外交官・政治家・大学教授として活躍し、中国史に名を残した人物は10指にのぼる、と作家の陳舜臣は語っている。ご先祖の遺徳であろうか。


林則徐の像

紅山の山頂から見たウルムチ市街

紅山公園の山頂のお堂






2025年12月8日月曜日

【ウルムチ】白酒(バイジュウ)と白ワイン

 シルクロードのものがたり(86)

ウルムチ最後の夕食のレストランは、立派な店構の一流店だ。「バイジュウを置いてあるかなあ?」と商社で中国勤務が長かったY君が、ガイドのエイさんに聞いている。「お店に聞いてみます」と言って、しばらくして戻ってくる。「あるそうですよ。値段は530元だと言っています」と返事をしている。

なんの話だろうと思いながら、私はとなりに座るY君とガイドのエイさんの会話を聞いていた。お酒の話らしい。9日間の中国の旅が終わりに近つ”いたので、我々10人のツアー仲間の思い出に、何か記憶に残るイベントとしてY君が親切心で思いついたことのようだ。

「一流のレストランには置いてあるが、二流以下の店には白酒は置いてないんだよ」と同君が教えてくれる。日本円で一万円少々だ。グループの男性6人は多かれ少なかれ、みんなお酒を飲む。一人100元だからたいした金額ではない。話のタネに買って飲んでみようぜ、と話はすぐにまとまった。箱に入った高級そうな酒がテーブルに運ばれてくる。「伊力王酒」と書いてあり、アルコール度は53度とある。この種の蒸留酒は「白酒・バイジュー」と呼ばれている。

白酒で有名なのは、日中国交正常化の1972年、田中角栄総理と周恩来総理が「カンペー、カンペー」と盃をかわした「貴州・茅台(マオタイ)酒」だ。茅台酒は普通のもので5~6万円、高級品は一本100万円もするらしい。原料は高粱(コーリャン・モロコシ)・黍(キビ)で、この中国の白酒はスコッチウイスキー・コニャックブランデーと並び、世界の三大蒸留酒の一つと言われているそうだ。

白酒はストレートで飲むものだ、とのY君の言に従い、20CCほどの小型グラスについだものを恐る恐る飲んでみる。「旨いなあ」と思った。私はほどほどに飲む程度で酒豪ではないが、スッキリした味で、同時に深いうまみを感じる。「旨い酒だなあ!」とみんなから感嘆の声が上がる。ペットボトルをわきに置き、ときどき水を飲む。腹の中で水割りになる勘定だ。各人が飲んだアルコールの量は、どうだろう、ウイスキーのシングル3杯程度だろうか。みんな気分よく酔っぱらう。中国の旅の終わりにふさわしいY君の配慮に、みんな喜んでいる。


ホテルに帰ると、もう一本お酒が待っている。トルファンで買った白ワインだ。上海や東京に持ち帰ることは考えていない。封をしたままのワインを飛行機に積むことは可能だが、液体物を持ち込むときの検査がうるさい。いま一つ、荷物は出来るだけ軽くしておきたい。

さっきの白酒の酔いはすっかりさめている。やはり良い酒なんだと思った。3人で「ワインを飲もうぜ」という話になる。陸上部のY君は眠いので、風呂に入ってワインを飲んでそのまま寝るという。私の部屋からグラス1杯のワインを自室に持ち帰る。

ヨット部のS君は、自室でシャワーを浴びて私の部屋に来てくれる。2人でワインを飲みながら、昔の歌をおおいに歌う。S君と私は大学時代はヨット部だが、2人にはヨット部とはまったく別の世界があった。「貴族的野人会」という、田舎から出てきた元気者の文学好きが集まる結社である。居合道・少林寺拳法部の主将など硬派の連中もいて、皆で集まって酒を飲んで議論して歌を唄う。読んだ古典のことを語り合い、時には1~2泊で一緒に旅をする仲間十数人だ。この結社の総大将は、H君という信州・小諸出身の豪傑で、彼は現在S君と同じく名古屋に住んでいる。

そのころ唄っていた50曲ほどをノートに書き写し、それをコピーし小冊にして、今でも仲間が集まると一緒に唄う。戦前の唱歌・旧制高校の寮歌・軍歌が多い。ホテルの部屋の防音はしっかりしている。2人で1時間ほど大声で唄い、とても愉快な気持ちだ。50余年前と同じ歌を、今でも嬉しそうに唄う。「俺達まったく進歩していないなあ」と2人で笑った。

ちなみに、このとき唄ったのは次のような歌だ。

「月の砂漠」「あざみの歌」「北上夜曲」「船頭小唄」「蒙古放浪歌」「人を恋ふる歌」「一献歌」「青年日本の歌」「三高・紅萌ゆる丘の花」「三高・琵琶湖周航の歌」「八高・伊吹おろし」「水帥営の会見」「麦と兵隊」「軍艦行進曲」「酔歌」などだ。

おしまいの「酔歌」はポピュラーな歌ではない。我々仲間内だけの歌だ。仲間の大将のH君の母校・長野県立野沢北高等学校の応援歌「選手慰安の歌」の曲に、島崎藤村の『若菜集』の中にある「酔歌」を歌詞として唄う。


白酒・伊力王酒








2025年12月3日水曜日

【ウルムチ】ウルムチのバザール

 シルクロードのものがたり(85)

天山天池からウルムチ市内にもどり、すぐにバザールに向かう。午後の4時だ。このバザールというのは、中東・中央アジア・インドなどに住む人々の「市場」を意味する言葉だそうだ。地元の人々の生活物資を売る市場で、もともとは物々交換の形で始まったらしい。そこに、現在では多くの観光客は立ち寄っている。敦煌のバザールに比べると、ウルムチのほうはイスラムの匂いがぷんぷん漂っている。

丸ごとハミウリを買う予定もないので、3人でブラブラと見物して歩く。この、目的もなくブラブラ見物するというのは、気楽でなんとも気持ちが良い。イスラム帽子をかぶったお嬢さんの店でクッキーみたいなお菓子を少々買う。ヨット部のS君はザクロのジュースを買う。酸味がなく甘くてとても美味しい。石段に腰を掛け、これらを飲み食いしながら、3人で行き交う人々の顔をながめる。トルファンに比べると、青い目・金髪の人が多い気がする。


帰りの待ち合わせ場所と時間は、すでに決めてある。ガイドのエイさんのお姉さんが経営する「和田玉・ホータンギョク」の店だ。バザールの入り口近くにあり立派な店構えだ。お姉さんがお茶を出してくれる。何か買ってあげたいと思うのだが、適当な商品がない。ちょっとした小さな玉製品が5万円とか10万円もする。安い商品もある。くず石のネックレスが一つ千円程度で売っているが、これを買っても日本でもらってくれる人はいない。娘や家内から馬鹿にされるのが目に見えている。

「田頭さん、これはいいものだよ。安くしておくよ。代金は日本に帰って送ってくれたらいいから、持って帰ったら」とエイさんが言う。5-6キロ程度の本物のホータン玉の原石で、旅行バッグに入りそうだ。少しその気になって、値段を聞くと、「1500万円」だと言う。一瞬で怖じけつ”いてしまった。

「これは本物のホータン玉で、10年ほど前はこのクラスの玉には5000万円の値を付けて、上海や北京からの富裕層が気前よく買っていった」と言う。本当らしい。私が見た限りでは、お姉さんの店の構えは大変立派なのだが、買う人はほとんどいない。でもあまり気にしていない感じがする。景気にはサイクルがあり、次の好景気が来るまで、5年でも10年でも店の経営は大丈夫のようだ。お姉さんは今でも定期的にホータン(和田)に玉の買い付けに行っているという。

このホータン玉(和田玉)を売る店は、敦煌でもトルファンでも何十軒も見た。玉門関は二千年以上前に、このホータン玉(崑崙の玉)の密輸入を防ぐために造られた関所である。私はこの「ホータン玉」というものに以前から興味を持ち、このブログでも「崑崙(こんろん)の玉」と題して掲載した。今回の旅行での見聞から、私が考えていた以上に、この「崑崙の玉」は、今なお中国人の意識と生活の中に深く根をおろしているように思った。


ウルムチのバザール
イスラムの匂いがする


ウルムチのバザール

イスラム帽子のお嬢さん

石榴屋さんでS君がザクロジュースを買う

エイさんのお姉さんのホータン玉の店