「長安での二十年」(1)
シルクロードのものがたり(92)
玄奘が敦煌に着くと、太宗皇帝からの手紙が届いていた。それには、ホータンからの運搬費をすべて敦煌の役所が支払うこと、近く高句麗に遠征するので自分はしばらく国を離れること、しかし不在であっても宰相の房玄齢(ぼう・げんれい)に手厚く迎えるよう命じてある、等が書かれてあった。
じつは、太宗は玄奘がホータンから奉じた書面を見る前に、すでに玄奘という僧がインドから中国に向かって帰国の途にあることを知っていた。インドの戒日王(ハルシャ・ヴァルタ)が玄奘法師との出会いに感激して、玄奘がインドを出発した直後に、唐に国交を求めて使節団を送っていたからである。チベット経由の最短コースであったので、インド王からの国書のほうが玄奘の上奏文よりも早く長安に届いていた。インド王の文書には、当然ながら玄奘のことがべた褒めされていた。
本当のことを言うと、「隋王朝と違い唐王朝は長期の政権になると思われる。よって唐と国交を樹立しておくことはインドにとって得策である」と戒日王にアドバイスしたのは、ほかならぬ玄奘自身であったことが前後の動きからして読みとれる。この行為は、仏教を学ぶ一学僧の域を超えている。あきらかに、辣腕外交官・政治家の発想であり動きである。
太宗からの手紙を読むや、玄奘は長安への帰国を急ぎに急いだ。敦煌から長安までの距離は1650キロある。通常はこのように大量の荷物を持っての移動は、1日に30キロとされている。単純に計算すると56日を要することになる。ところが玄奘は、22頭の馬に経典を積み、各馬を疲れていないフレッシュな新馬に20回も取り換え、1日に60キロの移動を強行させ、半分の30日をもって長安城外に到着したのである。
貞観19年(645)の正月6日の夕刻であった。到着があまりにも早かったので、宰相・房玄齢の出迎えが間に合わなかったといわれている。これほどまでに玄奘が帰国を急いだのは、太宗が高句麗遠征に出かける前に拝謁して、仏典の翻訳に関して国家援助の確約を取っておきたかったからである。
玄奘と対面した太宗は上機嫌であった。しかし、皇帝は玄奘に対して二つの難題を突きつけた。一つは、「還俗して俗人にもどり、朕を補佐してほしい」との依頼である。太宗という人は好奇心旺盛で積極的な気質の人だったようだ。かつて漢の武帝が、豪傑外交官の張騫や蘇武を見たのと同じような目で、太宗はこの玄奘を見ていたことが感じ取れる。いま一つ、太宗は、「しばらくすると自分は東方へ遠征する。自分に同行して、毎夜西域での珍しい見聞を聞かせてくれ」と要請している。
この二つを、いずれも玄奘は体よく断っている。それでいて、太宗から嫌われていない。かつて、玄奘は高昌国やインドにおいて国王の依頼を断ったものの、両王様から嫌われていない。これと同じことが太宗とのあいだにも見ることができる。不思議な能力を持っていた人だ。
玄奘は王様や皇帝に対して、はっきりと自分の考えや希望を述べている。だからといって、かたくなに自己主張を続けるという態度ではない。相手に歩み寄れることであれば、柔軟性をもって譲歩している。たとえば次のような出来事があった。
インドから持ち帰ったサンスクリット語の経典は657部もあり、これを翻訳することが玄奘の後半生の最重要の仕事である。この翻訳作業に没頭するには、人里はなれた僻地が良いと考えた玄奘は、自分の故郷である洛陽の山中にある「少林寺」が最適だと太宗に希望を伝えた。「面壁九年」の達磨(だるま)大師と縁の深い古寺である。自分の故郷であり、同時に中国仏教の聖地でもある洛陽の山中の寺ということが、玄奘の心にかなったのであろう。
しかし、これに対して太宗は異を唱えている。「いや、あの山中は遠くてよくない。朕は母の供養のために長安の静かな場所に弘福寺を建立した。ここを使用しなさい」と。太宗は玄奘を自分の手元に置いて、ひんぱんに西域の珍しい話を聞きたいと希望している。これを察知した玄奘は、すぐさま少林寺案をひっこめ、弘福寺案に同意している。
こうして弘福寺において3年、その後は大慈恩寺において16年、玄奘は遷化する一ヶ月前までの19年間にわたり、多いときには54名の翻訳者を使い、74部、1335巻の仏典の翻訳を完成させている。



