「天竺から長安への帰路」
シルクロードのものがたり(91)
ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王・かいじつおう)からの莫大な喜捨のおかげで、玄奘は今までに収集したものに加え、多量の仏典や仏像を購入することができた。多数の従者と共にインドを出発して北に向かった。戒日王の指示で、北インド王の軍隊が玄奘一行を護衛した。仏典や仏像の輸送は軍隊にゆだね、玄奘自身は美しく飾った象に乗って北へ進んだと記録にある。
644年のことだ。インドに滞在した期間は13年となり、このとき玄奘は42歳であった。
現在の世界地図でアフガニスタン最北端にあるクンドゥズで、玄奘一行は一か月滞在した。ここは戒日王の配下にある北インド王国の都である。ここで、高昌国の滅亡と国王・麴文泰の死を知った。玄奘の無念はいかほどであったことか。しかし、このことは『玄奘三蔵伝』には何も記述されていない。〇〇将軍と同じく、筆者の慧立が意識的に削ったのであろう。
高昌国に立ち寄ることができなくなった玄奘は、帰路のルートを変更した。長安までの距離が短いタクラマカン砂漠の南側を通る「西域南道」を選択している。すなわち、カシュガル・ヤルカンド・ホータン・ニヤを経由して敦煌(玉門間)に至るルートである。
カシュガルでの滞在は短い。『大唐西域記』では、「カシュガルの人の性質は乱暴で、俗は詭(いつわり)が多く、礼儀は軽薄で、学芸は浅はかである」と手厳しい。
次のホータン(和田)では、当時のクスタナ国の王様に暖かく迎えられ、この地に十ヶ月も滞在している。カシュガルよりもずいぶん印象が良かったようだ。『大唐西域記』には次のようにある。「クスタナ国(ホータン)は穀作(こくさく)に良く、いろいろな果実が多い。紡績・つむぎに巧みで人々の多くは木綿を着ている。また白玉や黒玉(注・崑崙の玉)を産する。俗は礼儀を知り、人の性格は温和で、好んで学芸に励む。人々は富裕で、家々は業に安んじている。仏教を崇敬し、伽藍百余ヶ所、僧徒は五千余人いる。大部分は大乗教を学習している」
玄奘が十ヶ月もこのホータンに滞在したのは、暖かいもてなしを受け居心地が良かっただけが理由ではない。この地で二つの大事な案件を処理している。これらを片つ”けるのには、たしかに十ヶ月程度は必要だったと思われる。
さきにインダス川を渡った際に、象が溺死していくつかの経典を紛失していた。クチャとカシュガルにお金を充分持たせた使者を送り、これらの経典を補充している。
いま一つは、さらに重要であった。国禁を犯して唐を密出国した玄奘は、太宗皇帝に詫びる必要があり、同時に唐への快い入国許可を得なければならない。さらに、可能であれば皇帝の援助を受けたい。太宗に対する上奏文をしたため、高昌国生まれの馬玄智という青年に託し、何名かのキャラバン隊を編成して長安に向けて出発させた。
このときの上奏文が残っている。
かなり長いものだが、太宗皇帝をその気にさせる見事な内容である。国禁を犯したことを詫びながらも、自己の行動の正統性を述べている。同時に自分がその目的を達したことを伝え、自分の仏教修行・仏典の収集・見聞した情報が、これからの唐にとっていかに重要かを述べている。私が興味深く思ったのは、太宗皇帝のことを褒めたたえ、たっぷりのお世辞を述べている点だ。皇帝とて人である。「人たらし玄奘」の面目躍如たるものを感じる。弘法大師空海が、桓武天皇や嵯峨天皇に上奏した文章もこれに似ている。
ごく一部を引用する。
「長安を出発して天竺に参りました。その間に通った所は五万里におよび、困難危険は山ほどありました。しかし天威(注・太宗皇帝の威徳)のおかげで、どこへ行っても道は開け、手厚い歓迎を受け、身も辛苦をせず、目的を達成することができました」
「今まで見たこともない仏跡を拝観し、聞いたこともない経典を聴聞し、全世界の不思議を見つくしました。各地では唐において太宗皇帝陛下の徳がゆきわたっていることを述べ、人々の陛下に対する思いを啓発してまいりました。こうして周遊すること17年、大河を渡り、パミールを越え、ホータンまで帰ってまいりました。ところが、連れてきた大象が大河で溺死したため、大量の経典を運搬することができません。そのためここに停まり、一刻も早く馳せ参じ、陛下に拝謁いたしたいのですができません。これ以上延期することは堪えられませんので、高昌国から来ている俗人に依頼し、商隊に随行させ上表分を奉り、ご報告申し上げる次第です」
これを読めば、太宗皇帝も悪い気はしなかったであろう。
返事が届くのに7ヶ月かかった。その間に玄奘はホータンの僧侶たちに仏教の講義をおこなった。聴講者は毎回千人を超えたという。太宗皇帝からの返書には歓迎の意が表されていた。
「聞くところによると、法師は遠く西域を歴訪し、いま帰還されたとのこと。朕は歓喜無量である。すみやかに帰国して朕と会見せよ。クスタナ国(ホータン)の僧で梵語や経典を解する者も自由につれて来られよ。朕はすでに沿道の国々に法師を保護するよう命じた。人足や駅馬も不足しないよう手配した。敦煌の役人にも流沙まで出迎えさせる」

0 件のコメント:
コメントを投稿