2026年1月13日火曜日

玄奘三蔵の話(2)

 シルクロードのものがたり(90)

「天竺でのできごと」

玄奘は仏教を学び仏典を収集するためにインドに渡った。しかし、すでにその頃インドにおいては仏教は衰退のきざしを見せはじめていた。

宮廷の保護を受け、宗教としての存在感は保っていたものの、民衆のあいだではバラモン教に土着の信仰が加わったヒンズー教が勢力を拡大しつつあった。いま一つ、商人を中心にジャイナ教という宗教が存在感を増していた。このジャイナ教の信者は現在でもインドに500万人いて、日本の神戸にもジャイナ教の寺院があると聞く。どのような教義かは知らないが、中野にあるカレー屋のインド人オーナーに聞いたら、ジャイナ教の信者は菜食主義者だと言っておられた。イスラム教がインドに入るのは8世紀初頭というから、玄奘がインドに渡った80年ほど後である。

少し古いが2011年の統計によれば、インドの宗教概況は次のようである。ヒンズー教(79.8%)、イスラム教(14.2%)、キリスト教(2.3%)、シク教(1.7%)、仏教(0.7%)、ジャイナ教(0.4%) 仏教徒は少ないながらも、今なお滅亡せずに信者が残っている。ジャイナ教の2倍、約1000万人もの信者がいるそうで、他国のことではあるがなんだか心強く嬉しい気がする。


「玄奘がインドに入国したとき、仏教は衰退のきざしを見せていた」ということに、私は強い関心を寄せている。この事実が、玄奘に強い危機感を抱かせ、仏教の研究と仏典の翻訳に全力投入させるエネルギーとなったのだと思う。

同じようなことが、日本から仏教を学ぶために唐に渡った最澄・空海・円仁・円珍にもあてはまる気がする。最澄・空海が唐に渡ったのは803年だ。玄奘が長安に帰国した158年後である。じつはこの頃、唐においては、「大きく花開いた仏教は衰退のきざしを見せ始めていた」のである。最澄の弟子の円仁が入唐したのは839年、円珍は853年だが、この頃には「あきらかに廃仏の動きが中国内にあった」ことが円仁の『入唐求法巡礼行記』の中に読み取れる。

ただし、この廃仏運動に対する反発エネルギーなのか、この頃、黄檗・臨済・洞山・趙州といった骨太の大物禅僧が続出している。困難との遭遇によって人は偉大になるのかも知れない。そして、これら仏教の新しい流れである禅宗は、栄西や道元、そして南宋から日本に亡命して鎌倉幕府に保護された中国人僧・無学祖元(仏光国師)などによって、ごっそりと日本に導入されている。

奈良時代末期から平安時代の日本人僧は、日本で仏教を学び、それを深める目的を持って唐に渡った。ところが、仏教の聖地であると思っていたかんじんの唐では、すでに仏教は衰退のきざしを見せはじめている。これではいけない。日本に正統の仏教を伝えなければならないと、各人が使命感に燃えて発奮したように思える。

空海の場合、仏教史の流れとして、これがはっきりと読み取れる。真言宗第七祖である青龍寺の慧果(えか)は、短期間で真言密教の奥儀を空海に伝授した。そして、ただちに空海を第八祖に指名して、その直後に慧果は没している。これによって、真言密教の正統は中国ではなく日本に移ったのである。

以上のできごとを合わせて考えてみると、日本という国は、インドで発生して中国で熟成・蒸留された「仏教という普遍的で偉大な宗教」を、いいとこ取りする形で、ごっそりと導入できた、世界でも珍しい幸運な国であったような気がする。


またしても本題からはずれてきた。インドでの玄奘について、大急ぎで紹介したい。


玄奘が5年間学んだのは、インド東北部に位置し、インド仏教の最高学府といわれる「ナンダーラ僧院」である。「オックスフォードやケンブリッジよりも古い世界初の全寮制大学」と表現する人もいる。仏教の聖地で、僧徒は一万人といわれた。玄奘はこの学舎で副主講という立場に昇進している。どのような地位なのか私にはわからないが、この地でも「折り紙付きのエリート」として遇されている。

当時、この地を含む北部インド全域を支配していたのは、ハルシャ・ヴァルダナという実力王であった(在位606-647)。東はベンガル湾、西はアラビア海に至る、北部インドの東西に伸びる肥沃で広大な領域である。文武両面に秀で名君といわれたこの王様を、玄奘は「戒日王・かいじつおう」と記述している。

衰退のきざしが見えていたインド仏教を再建するため、戒日王は玄奘に対して、「貴殿のために100の寺院を建てるからインドにとどまってくれないか」と持ちかけたが、玄奘はこれを断り帰国の途についている。戒日王はやむなく、おびただしい量の金貨・銀貨を玄奘に贈り、彼を護送するようにと、沿道の各地に命令をくだしている。

それにしても、と不思議な思いがする。

高昌国の麴文泰、西突厥のセブグ・カハン(可汗)、そしてインドのハルシャ・ヴァルダといった、そうそうたる実力王たちが、玄奘をここまでサポートした理由はどこにあったのか。風貌が立派で学問があり、かつ人柄が良い。外交能力と政治力も兼ね備えている。これらの言葉をもってしても説明できないような、「なにか特別な魅力」を持っていた人のように思える。

『玄奘三蔵伝』を丁寧に読み、この人の行動をながめていると、次のような特色が私には見えてくる。

玄奘という人は、自分が危険な状態にあっても、相手が信頼できる人物だと思えば、本音をペラペラしゃべっている。用心深さが足りないのではないかと、ハラハラする場面が多々ある。しかし、結果的にこれによって相手から信頼を受け、この若者をなんとかして助けてやろうと相手に思わせている。それでいて、ときには、深く考えて慎重な上にも慎重にものごとを進めている。意識してなのか、それとも無意識なのか、大胆さと慎重さのバランスが絶妙である。

冒険家であると同時に哲学者。高僧であると同時に「生き方の達人」という印象を受ける。二重人格というと言葉が良くないが、二種類の性格を持っていた人のようにも思える。俗っぽく表現すると、「横綱級の人たらし」でもあった。ここで言う「人たらし」とは、「出会う人をことごとく自分の味方に引き込む能力」という意味である。

日本史のなかで「人たらしの横綱級」といえば、「空海」「西行」「北条泰時」「足利尊氏」「豊臣秀吉」などが頭に浮かぶ。

この二百年の日本史では、人たらしの横綱は「西郷隆盛」であろう。大関クラスとして、「坂本龍馬」「伊藤博文」「頭山満」「徳富蘇峰」あたりが思い浮かぶが、さてどうであろう。これらの番付は各人の好みによる。




















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