2026年4月17日金曜日

漢代の詩・二首

 シルクロードのものがたり(104)


非愁(ひしゅう)の歌    伝 烏孫公主(うそん・こうしゅ)

吾(わ)が家 我を嫁す 天の一方(いっぽう)に

遠く異国の 烏孫王(うそん・おう)に託す

穹廬(きゅうろ)を室(しつ)と為し 氈(せん)を壁と為し

肉を以て食と為し 酪(らく)を漿(しょう)と為す

居常(きょじょう)に土(くに)を思うて 心内(うち)に傷む

願わくは黄鵠(こうこく)と為りて 故郷に還(かえ)らん

この女性は漢の武帝の甥にあたる江都王・劉建(りゅうけん)の娘で、名を細君(さいくん)という。烏孫(うそん)国の王、昆漠(こんはく)に嫁した。昆漠の老後はその孫の岑陬(しんすう)の夫人となった。 烏孫国とは新疆とカザフスタンとの国境近く、イリ河流域・天山山脈の北西あたりにあったトルコ系遊牧民族の国である。

当時、漢帝国は西方に勢力を拡大しており、このとき、たまたま烏孫国とのあいだに平和条約が結ばれ、その証明として王族の女性を嫁がせたのである。いわば政略結婚であり、人質ともいえる。このような嫁入りのときは、たった一人で行くのではない。お付きの者が数百人も同行し、その中の数十人は現地で一生、主人である女性公主と生活を共にしたようである。

この詩は本人の自作ではなく、彼女に同行した漢人が公主に代わって、遠く異国に嫁した悲しみを歌った詩といわれている。松枝茂夫氏は次のように訳している。

わたしは天の果てに嫁がされ、遠い異国の烏孫王に身を託すことになりました。丸い天幕(パオ)がわたしの住み家、毛氈(もうせん・毛織の布)が部屋の仕切りです。主食は獣の肉、飲みものは獣の乳。明けても暮れても本土のことを思って胸が痛みます。できることなら大型の雁(かり・ガン)になって、故郷に帰りたいものを。

私の部屋の本箱の片隅に高校時代の漢文の教科書が置いてある。覗いてみたら、この詩が冒頭に出ている。読み下し文もない、和訳もない、漢文だけである。他の箇所の陶淵明の詩も、司馬遷の『史記列伝』も、すべて漢文だけで書かれている。16、7歳の頃、ずいぶん難しいことを教えられていたものだ。


この詩も悲しいが、次の詩はもっと悲しい。これは後漢(AD25-AD220)の時代のものと思われる。

十五にして軍に従いて征く   無名氏

十五にして軍に従いて征(ゆ)き

八十にして始(はじ)めて帰るを得たり

道に郷里に人に逢(あ)う

「家中(かちゅう) 誰か有(あ)る」

「遥(はる)かに看(み)ゆるは 是(これ)君が家」

松柏(しょうはく) 塚(つか) 累累(るいるい)たり

兎(うさぎ)は狗竇(くとう)より入(い)り

雉(きじ)は梁上(りょうじょう)より飛ぶ

中庭(ちゅうてい)には旅穀(りょこく)を生じ

井上(せいじょう)には旅葵(りょき)を生ず

穀(こく)を舂(つ)きて 持って飰(めし)を作り

葵(あおい)を採(と)りて 持って羹(あつもの)を作る

飰(めし)と羹(あつもの)は一時に熟するも

知らず 阿誰(たれ)にか貽(おく)らん

門を出でて 東に向かいて看(み)れば

涙落ちて 我が衣(ころも)を潤(うるお)す

十五で徴兵されて従軍し、八十になってやっと帰郷することができた。道で郷里の人に会い、「わが家には誰かいるかね」とたずねると、「ずっと向こうに見えるのがあなたの家です」と答える。見ればマツやカシワの木がはえ、土饅頭がいくつも重なっている。ウサギがイヌの通り抜けの穴から出入りし、キジが梁(はり)から飛び立つ。庭には野生の穀物が一面にはえ、井戸のまわりには野生のアオイがはえている。さっそく穀物を舂(つ)いて飯を作り、アオイをつんでスープを作った。飯とスープはすぐにできたが、さて一緒に食べてくれる人は誰もいない。門から出て、はるか東方をながめれば、涙はとめどなく流れて着物を濡らす。

なんとも悲しい詩である。

15歳で従軍したというのは理解できるが、80歳の老兵というのは世にいない。おそらくこの人は、蘇武や李陵と同じように、働き盛りのころ、匈奴か胡人の捕虜になったのであろう。北方もしくは西域の地で何十年もの捕虜生活を送り、捕虜交換条約が成立して帰国を果たしたのであろう。それにしても、悲しい詩である。





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