「続日本紀」で仕入れたうんちくをひけらかして、「奈良時代の役人の定年は70歳だった」と言っても、友人の多くは納得してくれない。
「そんな馬鹿なことがあるか。当時70歳まで生きた人は少なかったはずだ」と反論してくる。
思うに友人たちがこれを否定するのは、彼らの教養がじゃまをしているのかもしれない。
「奈良時代の日本人の平均寿命は30歳前後だった」という常識である。
幼児の死亡率の高さ、天然痘の流行(藤原不比等の4人の息子全員が同時期にこれで死亡している)など、若くして命を落とす人が多かったから、平均寿命は30歳前後になるが、70代―80代で元気な人は数多くいた。
元明天皇の慶雲4年(707)7月17日の詔(みことのり)に次のようにある。
「高齢者の百歳以上には、籾二斛(こく)を与える。九十歳以上には一斛五斗、八十歳以上には一斛とする」
このような年齢の人々がそれなりの数いたからこその詔だと思う。
70歳まで役人を務めた人、あるいはそれ以上の年齢まで働いた役人や僧侶は数多い。
たとえば、吉備真備は80歳で没したが、69歳の時に造東大寺長官になり、70歳で退任を願い出たが、結局76歳で右大臣を辞任するまで働かされている。
70歳以下ではあるが、「令和」の新元号で注目を浴びている大伴旅人が、「太宰帥・だざいのそち」に任ぜられ、10歳の息子の家持を同行して北九州に下ったのは64歳の時である。
家持は父が54歳の時に生まれている。
息子の家持が「持節征討将軍」に任ぜられたのは66歳の時だ。
僧侶をみると、行基(ぎょうき)81歳、泰澄(たいちょう)85歳、勝道(しょうどう)83歳と、長寿者が続く。そして、亡くなる直前まで、僧としての仕事を行っている。
「役人の定年70歳」というのは、唐の制度をそのまま導入したものであり、「続日本紀」のあちこちに見える。「養老律令」にも、「官人は年齢七十歳以上になれば、定年を許可する」と書かれている。
当初は、70歳になればお役目御免、ではなかった。
たとえば69歳で新たに国司に任命されて地方に赴任したとする。
元気であれば、4年の任期を終えて73歳で都に戻ってくることになる。
今でいう「認知症」になり、役目が果たせない国司が出てきたのであろう。
「任期をまっとうして帰任する時が70歳」という詔が後に出ている。
国司の任期は、当初の4年から6年に延長され、その後再度4年に戻ったようである。
4年・6年というのは、現在の衆議院議員、参議院議員の任期とオーバーラップして興味深い。
いままで中央の役人や国司(知事)の定年について述べたが、郡司(今でいえば、市長・助役・市の高級役人・税務署長などか?)に関しては、当初は定年はなく、80歳でも85歳でも死ぬまで現役であったらしい。国司は中央から任期を切って派遣されたが、郡司やその下の里長などの地方役人は、大化の改新以前の地方豪族が世襲していた。
職を失った地方豪族の反乱を防ぐ意味で、大和朝廷はその弊害を認識しながらも、このような処置をとったのではなかろうか。賢明な策だった、と私は考えている。
和銅6年(713)5月2日の記述に、元明天皇が次のように命じた、とある。
「郡司は終身を以て任期とし、年限によって代わる職ではない。しかるに善からぬ国司は、愛憎の心をもって、辞任を無理強いしたり、道理を無視して解任したりしている。今後このようなことがあってはならぬ。もし年齢が従心(じゅうしん・70歳)に達して、気が弱り、筋骨が衰え、精神が混乱して正常でないことを口走ったりする場合は、道理に従ってこれを許す。(中略)
ただし、その場合でも、国司は本人の詳しい自筆の書状を受け取り、慎重にこれを行なえ」
50代・60代の国司の言うことを聞かない、70代・80代のうるさ型の「じいさま郡司」が多数いたのであろう。これに手を焼いた若手の国司が、追い出しの首切りをしたのは、理解できる。
これに対して、「じいさま郡司」たちは連名でこのことを天皇に訴えたのであろう。
上記はこれに対応した詔と思われる。
「精神が混乱して、正常でないことを口走ったりする」ぼけ老人の郡司に対しても、「本人の詳しい自筆の書状を書かせろ」と天皇様はおっしゃっている。
この詔には、国司たちも当惑したに違いない。
そんなことが出来るわけがない。
「まいったなあ、、、」と苦笑いしながら、夜になって一人でヤケ酒を飲んでいる、若い国司の姿が目に浮かぶ。
この20年ほどのちの、聖武天皇の天平6年4月26日の記述に、
「年齢が七十歳以上の人を、新たに郡司に任ずるのを禁止した」とある。
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