2019年5月27日月曜日

奈良時代の役人の定年70歳(2)

「奈良時代の役人の定年70歳」を例に出して、それゆえ今後、日本の役所も企業も定年を70歳にすべきである、などという考えは、まったく持っていない。

物事にはプラス・マイナスの両面がある。ざっくり言って、50:50、ぐらいの気がする。
定年を何歳にするかは、企業や役所が考えれば良いことで、私はどっちでも良いと思っている。

しかし、私がどう思おうが、今後数年間で「定年70歳」は定着してくるような気がする。
同時に、役所や企業の定年が何歳になろうとも、70歳あるいは80歳まで働く人は今後増加してくると思われる。

その時、60歳の人が、今後の自分の進路をどう決めるかが重要なポイントとなる。

「70歳定年はありがたい。多少給料が下がっても同じ会社で70歳まで働きたい」
「冗談じゃない。10歳も20歳も後輩が上司でいる昔の会社や役所にしがみつくなんて、まっぴらごめんだ。俺は自分の力で、なんとか食っていくぞ」

このように、AさんとBさんとに、考え方が分かれると思う。

私はだんぜんBさんにエールを送りたい。
「私も賛成です。Bさん頑張れ!」と。

なぜかというと、

このAさんとBさん、60歳で健康であれば、たぶん両者とも90歳まで元気で生きると思う。
そして、91歳になった朝、二人ともポックリ亡くなったと仮定する。

亡くなる直前、Bさんは、「俺なりに良く生きたぞ」と微笑しながら死んでいかれるような気がする。
かたやAさんは、もしかしたら、「俺の一生はこれで良かったのかな?」と少し物足りなさを感じながら、死んでいかれるかもしれない。

Bさんは失敗するかもしれない。
しかし、たとえ失敗しても、現在の日本においては、Bさんが飢え死にする可能性はまずない。
飢え死にしないことが決まっているのだから、考えようによっては、なんのリスクも無い。
そうであれば、自分の好きな「面白いこと」をやったほうが得である。

「田頭さんは勝手なことを言っているが、私はどのような選択をするのが良いと思うか?」
と聞いてくる方がいるかもしれない。
「それはご自身で考えてください。もしかしたら、江戸時代の人々の生き方がヒントになるかもしれません」と答えたい。

江戸時代の人口は、初期が2700万人前後、終わり頃が3300万人前後、と全期間を通じて3000万人前後で推移している。中期ごろ新田開発がなされ、米の生産高は多少増加しているが、GDPは大きくは増えていない。

それが原因なのか、武士の先祖代々からの石高も大きくは変化していない。息子が30歳になって仕事がなくブラブラしていてはよろしくない。息子に跡目相続させ、本人は45歳、50歳で隠居する。商家の旦那連中も、武士を見習ったのか、息子や娘婿に跡をとらせ、若くして隠居している人が多い。

この後、本物のご隠居さんになって、ブラブラと老後を楽しんだ人もいるが、今までやりたかった自分の好きなことをやって、お金を稼いだ人も案外多い。

剣術の道場、四書五経を教える塾、和歌俳諧、書道、絵描きになった武士もいる。
なかにはへんてこな仕事を始めた人もいる。落語に「あくび指南」という噺があるが、あくびの仕方を教えてお金を取っていた師匠もいる。お金を払ってそれを教わっていた人もいたというから、世の中面白い。

伊能忠敬という人は50歳で隠居した後、19歳年下の先生のもとに入門して、数年間、天文学・地理を学び、その後ワラジを履いて東北・蝦夷・樺太を歩き回って、立派な地図を作った。

あるいは32歳と若い人だが、良い収入を保証されたポジションを辞退して、洋学の塾の経営を始めた人がいる。
仕事上で冒険をしようとするとき、それに反対するのは、昔も今も「身内の人」らしい。
この人も奥様の父親に反対された。「塾の経営なぞ、たいがいはつぶれるから止めろ」と。

この人は、若いころ緒方洪庵の適塾に学んだというから、多少は医術の心得もあったのかもしれない。マッサージが得意だったらしい。
「お義父さん、塾の経営に失敗していよいよ食えなくなったら、私は按摩(あんま)さんになって、女房・子供を食わせます」と言って、その塾を始めたのだという。

義父の予想が外れ、塾の経営に成功したので、その人は按摩さんにはならなかったらしい。

その後も、この塾はつぶれないで、いまなお慶応義塾という名前で、立派な塾として世の人々から尊敬を受けている。

































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