2019年11月11日月曜日

今東光と司馬遼太郎(2)

この話は亜細亜大学の講演会では聞かなかった。
「極道辻説法」の中にある話である。.


俺はずいぶんいろんなことをやってきたが、昔、新聞社の社長もやったことがあるんだ。
(注:「中外日報」という明治30年に創刊された一宗一派に偏らない宗教専門の新聞で、現在でも続いている)

 仏教関係の小さな新聞社でね。つぶれそうになって頼まれてさ。広告っていうのが、墓石とかお線香だとか。これじゃ金にならねえからつぶれるわけだ。それでまず第一にやったことが、編集長以下全員に広告取りをさせてね。編集の野郎ども、大騒ぎしやがった。

それから、俺が目をつけていた新聞記者に長編小説を連載させた。
「今先生、とても無理です。まだ短編しか書いたことないんですから」と尻ごみする奴を、「長編だって短編だって変わりやしねえよ。ただし、原稿料は俺のポケットマネーから出すからたいしてやれねえ。その代わり、好きなことを書いていい。また何年続いてもかまわない」

その小説が終わった時、俺は講談社に頼み込んで本にしてもらった。
これが直木賞に選ばれてな。それが司馬遼太郎よ。


この時の小説「梟(ふくろう)の城」は、昭和34年(1959)下半期の直木賞に選ばれた。
海音寺潮五郎・小島政次郎・川口松太郎などの選考委員全員が絶賛したという。

思うに今東光は、「中外日報」に連載されている時から、これは直木賞がとれる、と踏んでいたのではあるまいか。今東光が直木賞をもらったのはこの2年前、「お吟さま」であるが、これは本人にしたらすこぶる遅い受賞といえる。

菊池寛の文藝春秋社が芥川賞・直木賞の二つをつくったのは昭和10年で、川端康成は第1回の芥川賞から選考委員をつとめている。菊池寛との喧嘩がなければ、第1回の直木賞の選考委員の中に今東光が入っていた可能性はきわめて高い。その意味で、今東光は本来は直木賞を与える側の作家で、もらう側の作家ではなかったともいえる。

それだけの実力者だから、「梟の城」の価値を一瞬で見抜いたのであろう。あるいは仲良しの川端や海音寺・小島・川口など文壇の実力者たちに、「この男に直木賞をやってくれ」と頼んだのかもしれない。


今東光の直木賞受賞の時の話はおかしい。
「なんで俺が直木の奴の賞をもらうために、のこのこ出かけにゃならんのだ。直木の野郎には35円の貸しがあるんだ。それを返しもせずあいつは死んでしまいやがった」
そう言って授賞式に出ないので、文藝春秋の社長が今東光の自宅に、正賞の時計と副賞の10万円を持参したのだという。

今東光の5歳年上が芥川龍之介で、6歳年上が直木三十五だ。川端も今も、芥川には一目も二目もおいていたが、直木に対しては、少なくとも今東光は、自分と同格か自分より少し劣る作家と思っていたようだ。

今東光が書いた作品を劇にして、どこかの劇場が上演することになった。その原稿料を劇場側が「今さんに渡してくれ」と直木三十五にあずけた。その金全部を直木は使ってしまった。

「35円貸しがある」というのは、直木の名前に重ねた今東光一流のユーモアで、実際はそれよりかなり多額の金だったらしい。
「よりによって預けた相手が悪すぎるよ」と今東光はぼやいたらしい。

この直木三十五という人はずいぶん金使いの荒い人で、43歳で亡くなるまで、いつも借金まみれだった。それでいて意気軒昂で、借金なんぞなにするものぞ、との態度の人だったらしい。

作家の川口松太郎は、二か所の借金取りが直木のところに金を取りに来たとき、偶然その場に居合わせたという。

「直木は”ない”と言って、それっきり黙ってしまうんだ。なにも言わないから相手は参っちゃうんだ。根負けした高利貸しが帰ろうとすると、”少し金をおいていってくれ”と直木が言うんだ。その高利貸しが少し金をおいて出ていったのを俺は見たんだよ。これにはびっくりしたねえ」

第一回の直木賞を受賞した川口松太郎の証言である。


















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