2019年11月27日水曜日

神社のものがたり・宗像大社

宗像大社には、子供のころから親近感と尊敬の気持ちを持ち続けている。

この神社は福岡県の北部にある。

私の実家は現在は広島県尾道市と表示されるが、子供の頃は、広島県沼隈郡浦崎村と呼ばれていた。宗像大社とはずいぶん離れているのだが、少年の私は、この神社には憧憬の気持ちさえ持っていた。次のような理由による。

私の祖父・田頭佐市は明治28年の生まれで、大正の後半から太平洋戦争にかけて、内航海運のオーナーだった。大きな船ではない。300トン前後の機帆船数隻を所有して、それぞれの船に6-7人の船員を乗せ、北九州の若松から大阪・神戸方面に、主として石炭を運んでいた。
遣隋使船や遣唐使船も、船型は異なるが、長さ・幅・トン数的にはこのくらいの大きさの船であったらしい。

祖父の弟に田頭芳衛という人がいた。この大叔父は、満洲国が建国されてまもなく、財産分けでもらった1隻の機帆船を自分で運転して、数人の村の若者を連れて遼東半島の大連に渡った。
その地で海上運送業をいとなみ、商売に成功した。

満洲に行ったきりというのではなく、正月・お盆など年に何回か自分の船で郷里の浦崎村に帰っていた。帰りも行きも、なんらかの荷物を積んでいたので、商売をしながら行き来していたことになる。太平洋戦争は日本の敗北に終わった。

終戦の数日後、連合軍司令部は、「日本の航空機および外地からの船舶の運航はすべて停止せよ。これに違反する飛行機は撃ち落とし、船舶は撃沈する」との命令をくだした。

ところが大叔父は、昭和20年の10月に、自分の船に家族や知人など十数人を乗せ、家財道具すべてを積んで、なおかつ、米・小麦粉・砂糖・食用油などの食料をふんだんに積み、自分の運転で村の海辺にある自分の家の沖まで帰ってきた。機帆船といっても、通常は軽油でエンジンを動かす。日本人には油を売ってはいけない、との厳命が出ていたのだが、可愛がっていた満洲の現地の人たちが闇にまみれて数本のドラム缶を運んでくれたのだという。

同乗していた人から聞いた話では、関門海峡西の六連(むつれ)島の沖でアメリカの駆逐艦につかまった.。魚雷を撃ち込まれるかと心配したが、米兵は艦上からのぞきこみ、笑いながら手を振って「行け、行け」と合図をしたという。「魚雷がもったいないと思ったのだろう」とその人は言ったが、大陸からの帰還者だとはすぐにわかる。憐れに思った米兵の人道的かつ常識的な配慮であったかと思う。

満洲からの引揚者の手記には、想像を絶する苦労話が数多く書き残されている。大叔父のこの大胆な行動には、村の人々も感嘆し、痛快な話として当時村では語り草になっていた。
私は今でも、この大叔父の「マッカーサーなにするものぞ」の気概を、はなはだ愉快に思う。


子供の私に、大叔父は何度かこの時の話を聞かせてくれた。
「自分の船で大連に行った。大東亜戦争に負けて、日本人は国に帰れという。自分の船で帰るのがあたりまえじゃ」、「何十回も行ったり来たりしとるんじゃ。大連までなら今でも海図なしで行けるぞ」、「宗像大社の沖ノ島を目印に行くんじゃ」と言ったのが、記憶に残っている。

どのようなルートで行き来したかは聞かなかったが、おそらく関門海峡を出たあと、沖ノ島を目印に対馬の東側を航海し、釜山を目指したのだと思う。釜山には入港せず、朝鮮半島の南部を西に航海して、その後半島の西海岸に沿って北北西に進路をとれば、そこがすなわち満洲国の遼東半島・大連である。

遣隋使や初期の遣唐使(1次から5次まで)もこのルートで中国大陸に渡っている。これが大陸に渡る一番安全な航路であり、卑弥呼が派遣した邪馬台国からの使者も、このルートで魏(ぎ)国に渡ったと考えられている。10ノット前後の機帆船でも、5日から6日もあれば、我が故郷の浦崎村の海辺から大連まで到達できる。
























0 件のコメント:

コメントを投稿