鑑真招聘を語りたいのだが、その前に、古麻呂とは何者か、大伴氏とは何者かについて少しだけ考えてみたい。
古麻呂の名は「続日本紀」にしばしば登場するが、大伴氏の家系図の中でどこに位置するか、研究者によりまちまちである。大伴家持との関係において、「家持の父旅人(たびと)は古麻呂の父(名は不明)の弟」という説(すなわち家持と古麻呂はいとこ同士)と、今一つは「旅人と古麻呂がいとこ」という説である。どちらかはっきりしないが、家持は子供のころから親戚である年上の古麻呂を慕っていたと思われる。
1300年後、「令和」の元号で男をあげた大伴旅人が、妻と息子の家持を連れて大宰帥(だざいのそち)として赴任するのは神亀5年(728)、本人が64歳の時である。息子の家持は10歳であった。翌年妻が亡くなり、その1年後、旅人自身が重病になる。
この時、古麻呂は親族の一人として旅人の遺言を聞くために、奈良から大宰府に急行している。古麻呂の官職は治部少丞(じぶしょうじょう)というから、中央官庁の課長クラスで年齢は30歳前後と想像する。平城京から古麻呂が持参した薬が功をなしたのであろうか。さいわいなことに、この時、旅人の病は快復する。12歳の少年家持の目には、頼りになる親戚の偉い人、と映ったに違いあるまい。
家持の祖父・安麻呂は、古麻呂の祖父・御行(みゆき)の弟という説もある。もしそうであれば、安麻呂も御行も大納言・右大臣の地位に昇っているから、両者とも位人臣を極めたことになる。よって、この当時の大伴一族の家長は兄の御行(古麻呂の父か祖父)であったと考えるのが自然である。
大伴氏の歴史はとても古い。
大和朝廷が成立する頃、すなわち3世紀ー4世紀からの武門の名門が、蘇我氏に滅ぼされた物部(もののべ)氏とこの大伴氏である。両氏とも武門の名族であるが、物部氏が攻撃集団としての日本陸軍の祖という性格であったのにくらべ、大伴氏は天皇最側近の近衛軍団の長(おさ)という印象が強い。