2020年9月28日月曜日

快男児・大伴古麻呂(3)

 鑑真招聘を語りたいのだが、その前に、古麻呂とは何者か、大伴氏とは何者かについて少しだけ考えてみたい。

古麻呂の名は「続日本紀」にしばしば登場するが、大伴氏の家系図の中でどこに位置するか、研究者によりまちまちである。大伴家持との関係において、「家持の父旅人(たびと)は古麻呂の父(名は不明)の弟」という説(すなわち家持と古麻呂はいとこ同士)と、今一つは「旅人と古麻呂がいとこ」という説である。どちらかはっきりしないが、家持は子供のころから親戚である年上の古麻呂を慕っていたと思われる。


1300年後、「令和」の元号で男をあげた大伴旅人が、妻と息子の家持を連れて大宰帥(だざいのそち)として赴任するのは神亀5年(728)、本人が64歳の時である。息子の家持は10歳であった。翌年妻が亡くなり、その1年後、旅人自身が重病になる。

この時、古麻呂は親族の一人として旅人の遺言を聞くために、奈良から大宰府に急行している。古麻呂の官職は治部少丞(じぶしょうじょう)というから、中央官庁の課長クラスで年齢は30歳前後と想像する。平城京から古麻呂が持参した薬が功をなしたのであろうか。さいわいなことに、この時、旅人の病は快復する。12歳の少年家持の目には、頼りになる親戚の偉い人、と映ったに違いあるまい。

家持の祖父・安麻呂は、古麻呂の祖父・御行(みゆき)の弟という説もある。もしそうであれば、安麻呂も御行も大納言・右大臣の地位に昇っているから、両者とも位人臣を極めたことになる。よって、この当時の大伴一族の家長は兄の御行(古麻呂の父か祖父)であったと考えるのが自然である。

大伴氏の歴史はとても古い。

大和朝廷が成立する頃、すなわち3世紀ー4世紀からの武門の名門が、蘇我氏に滅ぼされた物部(もののべ)氏とこの大伴氏である。両氏とも武門の名族であるが、物部氏が攻撃集団としての日本陸軍の祖という性格であったのにくらべ、大伴氏は天皇最側近の近衛軍団の長(おさ)という印象が強い。




2020年9月19日土曜日

快男児・大伴古麻呂(2)

 「続日本紀」は言う。

正月三十日、遣唐副使・大伴宿禰古麻呂が唐国から帰国した。古麻呂は次のように奏上した。

大唐の天宝十二年正月一日に、唐の百官の人々と、朝貢の諸外国の使節は朝賀を行ないました。天子(玄宗皇帝)は蓬莱(ほうらい)宮の含元殿(がんげんでん)において朝賀をうけました。この日、唐の朝廷は古麻呂の席次を、西側にならぶ組の第二番の吐蕃(とばん・チベット)の下におき、新羅(しらぎ)の使いの席次を東側の組の第一番の大食国(たいしょくこく・ペルシャ)の上におきました。そこで古麻呂は次のように意見を述べました。

「昔から今に至るまで、久しく新羅は日本国に朝貢しております。ところが今、新羅は東の組の第一の上座に列(つら)なり、我(日本)は逆にそれより下座におかれています。これは義にかなわないことです」と。

その時、唐の将軍・呉懐実(ごかいじつ)は、古麻呂がこの席次を肯定しない様子を見て、ただちに新羅の使いを導いて西の組の第二番の吐蕃の下座につけ、日本の使い(古麻呂)を東の組第一番の大食国の上座につけました。


この報告の中に、大使・藤原清河のことがひと言も触れられていないのは、とても不自然である。考えられる一つの理由は、この時点では大和朝廷も古麻呂も、清河・阿倍仲麻呂の乗る第一船は遭難し両名は死亡したと考えていた。二つ目の理由として、遣唐使の期間中、古麻呂と清河は一貫して対立しており犬猿の仲であった。

このように考えられるが、もしそうであったとしても、大納言・藤原仲麻呂が可愛がる従弟で、かつ孝謙天皇の親戚でもある行方不明の大使・藤原清河についてひと言も触れてないことに異常さを感じる。この時、古麻呂はもう少し藤原清河に対して配慮ある奏上をしておけばよかったのに、と大伴氏びいきの筆者は悔やんでいる。

この三年半後、古麻呂は非業の死をとげる。従弟の家持の無念さと孤独感はいかほどであったことか。陰謀を企てたということになっているが、はっきり言って、藤原仲麻呂にはめられて殺されたように思われる。


この奏上は古麻呂の得意の一節であろうが、その後の日本史を現在からながめてみると、もう一つの古麻呂が強行した「唐僧・鑑真招聘」のほうが、大きな意味を持つように思える。もっとも、この帰朝時点においては、その後の鑑真の日本仏教への貢献については誰もわかっていない。仏教に造詣の少なかった古麻呂が、鑑真の偉大さを理解してなかったとしても、それはやむを得ないことだったと思う。








2020年9月14日月曜日

快男児・大伴古麻呂(おおともの・こまろ)

 遣唐副使・大伴古麻呂は顔を真っ赤にして抗議している。

「なんだこれは。なめるんじゃないぞ!」

大唐の天宝12年(753)正月元旦の朝、場所はみやこ長安の蓬莱(ほうらい)宮である。しばらくしたら玄宗(げんそう)皇帝が姿をあらわし、諸外国の使節から朝賀を受ける。唐の百官はすでに式場で待機している。

「冗談じゃない。こんな馬鹿げた席順で座れるかよ。俺は絶対に座らん!」

すさまじい迫力で古麻呂は吼え続けている。唐の役人を相手に文句を言うのだから、一応中国語で話しているのだが、おそろしく下手だ。 遣唐大使・藤原清河(きよかわ)も副使・吉備真備もおろおろするばかりだ。

じつは、この二人にとって古麻呂の反論はありがたい。この席順で座ったとなると、帰国後、国粋派の連中から国威を汚したと攻撃されるのは明らかである。日本の右翼・国粋派の筆頭である大伴家の実力者が、ここでこう主張してくれるのは二人にとっては好都合である。

そうではあるが、古麻呂のこの蛮勇はいかがなものか。もう少しまともな中国語がしゃべれないのか。17年間の入唐留学で中国語に堪能なエリート官僚の真備は、複雑な気持ちでこれをながめている。そのくせ、自分が騒ぎに加わりこれを解決しようとはしない。やはり、エリートの学者気質はぬぐえない。

そう。古麻呂は充分な中国語がしゃべれないのである。57歳の真備も43歳の古麻呂も、入唐留学経験者というふれこみだが、中身はまったく違う。真備は22歳で阿倍仲麻呂などと共に入唐し、長安で17年間勉強した本物の留学生だ。学問・礼儀作法・中国語ともに教養ある中国人と変わらない。

かたや古麻呂のほうは、30歳前で長安の地を踏むものの、1年間ほど長安の町をウロウロと見聞し、連日大酒を飲んで帰国したにすぎない。いってみれば遊学組である。学問をしてないどころか、唐式の礼儀作法など頭から無視している。

片言の中国語なのだが、不思議なことに通じている。真っ赤な顔で怒鳴り散らすのだから、相手にも怒っているのはわかる。儀典長は弱り切っている。元旦の朝、玄宗皇帝が外国の使節から朝賀を受けるのは、めでたい恒例の儀式だ。その直前に、席順が気にくわないと日本の使節が席に座らないとなると、儀典長の大失態になる。

その時である。呉懐実(ご・かいじつ)という名の唐の将軍が、古麻呂の存在に気付く。「なんだ。お前かよ!」 そう言われた古麻呂は、呉に同じ言葉を投げ返す。十数年前、長安の街をウロウロしていた時の、仲の良かった飲み友達である。義兄弟のちぎりを結んだその男が、今は将軍になっている。

呉将軍は、自分より格下の儀典長に耳打ちする。「この男、言い出したら絶対あとに引かん。ここは俺にまかせろ。俺が新羅に話をつけるから。ええな!」儀典長にすれば、願ったりかなったりである。こういう次第で、朝賀の席順の問題は解決した。

つねに淡々と味気のない表記の「続日本紀」なのだが、これを記録した天平勝宝6年(754)1月30日の箇所は、古麻呂の得意顔と記録官の気の昂(たか)ぶりがわずかに感じられる。









2020年9月7日月曜日

父の武勲(3)

 次の話も父から聞いた。勇ましい話ではないが、なぜか記憶に残っている。二つとも戦争に負けた後の話である。

8月15日に玉音放送が流れたあとも、厚木などいくつかの航空隊で徹底抗戦の声が上がり、数日間あちこちの航空隊で混乱があった。それらに比べ、佐伯航空隊の司令は偉物(えらぶつ)であったようだ。8月16日の朝、司令から次のような訓示があったという。

「戦(いくさ)が終わったので皆は順次復員することになる。ただ、一度も飛行機に乗ったことのない整備員が多数いる。同じ海軍航空隊にいたのに、一度も飛行機に乗らないで故郷に帰すのは可哀想だ。国に帰ってからも肩身が狭かろう。整備員全員を飛行機に乗せてやりたい」

このようなわけで、三座の飛行機に操縦員一人が乗り、本来は偵察員と通信員が乗る空いた座席に二人ずつ整備員を乗せ、30分程度の遊覧飛行を16日と17日の両日行った。そのあと、身に着けたライフジャケットのまま飛行機乗りの格好で、呼んでいた写真屋に写真撮影をさせた。「故郷に帰ってからの土産話ができた」と整備の人たちは大喜びしたという。


終戦の3日後、8月18日にも奇妙な指示があった。司令や飛行長などお偉いさんのそばに、佐伯の漁業組合長さん以下の幹部が立ち並んでいる。司令はこう話された。

「大東亜戦争がはじまった時、ここ佐伯湾には山本長官が座上される聯合艦隊の旗艦・長門がいた。以来、この港は海軍が使ってきた。佐伯湾の中での漁は一切禁じたので、漁業組合には不自由をかけた。4年近く漁をしてないので、この湾にはたくさんの魚がいるそうだ。これから組合長さんに話をしてもらう。海軍としてはこれに協力したい」

この時、佐伯には零式三座水偵が12機あった。2機を選び、潜水艦攻撃に使う爆雷を積んで上空で待機してほしい、と組合長は言う。伝馬船に乗った漁師が、魚がたくさんいそうな場所で大きな白旗を振る。伝馬船は急いでそこから離れる。この場所に爆雷を投下してほしいと組合長は続ける。

たまたまその1機に父が選ばれたらしい。爆雷を投下すると、おびただしい量の魚が浮かび上がってくる。それを10隻以上の伝馬船で漁師たちが回収してゆく。何度も爆雷を落とした。中には水圧で腹の裂けた魚もいたが、採ったばかりなので問題なく食べられる。

「海軍さん、ありがとうございます」

その日の午後、形の良い鯛や黒鯛、ヒラメ、ブリなど大量の魚が、漁業組合から佐伯航空隊に届けられた。

「搭乗員は戦犯として一番に捕まる恐れがある」とのことで、父は8月20日過ぎには早々と広島県の実家に復員を命じられたという。


佐伯航空隊の最後の司令は野村勝という人で、海兵52期で高松宮・源田実と同期である。普通は航空隊の司令には大佐が任ぜられるのだが、この人は海軍中佐であった。よほど嘱望された優れた人物だったのであろう。