「のぶちゃんはりんごのおかげで助かったんだよ」と、子供の頃に何度か母に聞かされた。この前も、広島県の実家に帰った時、95歳の母はりんごをむきながら、この昔話をする。
あととり息子が生まれたので、家族や親戚一同が喜んだ。かわいい赤ちゃんで、賢そうな顔をしている。一歳になったころ、祖母が四国の親戚に自慢の赤ちゃんを見せにいった。そこで赤痢にかかったらしい。帰って来たら様子がおかしい。祖父と仲良しだった村の医者に来てもらったが、もう駄目だろうという。
やぶ医者ではない。第三高等学校に学び京都帝大医学部を卒業した、村にはもったいないくらいの名医である。その名医がサジを投げたのだから、本当に危なかったのだろう。
その時母は何を思ったのか、家にあるりんごをすりおろし、その果汁をガーゼにしみこませて赤ちゃんの口にあてた。一歳の私はそれを美味しそうに吸ったらしい。翌日になっても生きている。それ、りんごだ ! と祖母がかなり遠いところの店まで歩いて買いに行った。毎日りんご汁を飲ませていたら、不思議なことに元気になったのだと、母は今でも言う。
こんな話を何度も聞かされていたので、私は若い頃からりんごには、内心畏敬の念を抱いていた。果物屋やスーパーでひと山いくらで並んでいるりんごを見ても、なんだか昔お世話になった方にお会いしたような気持ちになり、少しばかり緊張する。頭を下げたり口に出したりはしないが、「やっ、その節はどうも」といった気持になり、心の中で頭をさげる。
だからといって、特別りんごが好きなわけではない。あれば食べるが、自分で買いに行くほどではない。柿は大好きだ。秋になると実家の富裕柿は丁寧に収穫する。渋柿も採って干し柿にする。しかし、りんご様にはこれほどの恩義があるのだ。もっとりんごを食べなければ、と近頃思っている。
現在我々が食べている大きなりんごは、明治維新のあとアメリカから入ってきた。当時の日本人はこの果実を「アップル」と呼んで珍重した。新政府はこのアップルに注目する。勧業寮や北海道開拓使は、アメリカやカナダから苗木を購入して、冷涼な日本各地に植えさせた。北海道は寒すぎたらしい。岩手県・青森県・長野県などで品質の良いアップルが収穫できた。
いつまでもアップルと呼んでいるのは、日本人の民度が低いような気がする。何か良い言葉はないかと思っていたら、ある人が、清国ではこれを「苹果(へいか)」と呼んでいるという。これを真似することにした。
明治10年代から20年代にかけて、日本人はこの果実を苹果(へいか)と呼び、政府はこの栽培を奨励した。今でも青森県や長野県の旧家の土蔵から、新聞の「苹果栽培のすすめ」の檄文が出てくるそうだ。その文章は、当時の自由民権運動の壮士の演説のように勇ましく憂国調である。
たとえば、明治23年版では、「嗚呼(ああ)、殖産篤志の諸君よ。奮ってこの苹果を栽培せば、ただ一家を利するのみならず、国の富を致すや期して得べきのみ」とある。
本の知識だけでは心配なので、北京大学を卒業された中国人の友人Sさんに聞いてみた。「りんごは中国では苹果といいます。発音は、ping guo です」と教えてくださった。
ところがこの「苹果(へいか)」、明治30年頃から日本人は突然、「林檎(りんご)」と呼ぶようになる。きわめて短期間で、呼び名が変わったのだ。
司馬遼太郎は、「街道をゆく・北のまほろば」の中で、「やがてこの栽培が普及するにつれ、林檎(りんご)という日本語として響きのうつくしい古い言葉がよみがえってきて、それに統一されるようになった」と言っておられる。司馬さんのおっしゃることだから、そうなのであろう。
ただ私は、これ以外に別の理由がある、と考えている。それについては次回で述べたい。
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