2020年11月23日月曜日

りんごの話(2)

 りんごの原産地はコーカサス地方だ、といわれてきた。黒海とカスピ海に挟まれた西アジアの高原地帯だ。近頃になって、タクラマカン砂漠北の天山山脈の南ではないか、という新説も出てきた。いずれにしても、その原産地は西アジアの冷涼地帯である。

おそらく数千年以上も前、りんごのご先祖さまは西と東に向かって旅を開始した。馬かラクダの背に乗って移動したのであろう。

西に向かったりんごは大きくなった。古代ギリシャ・ローマ人は果物の王様、として珍重した。スイスのウイリアム・テルが息子の頭の上に林檎を載せて矢を射ったのは、1307年の話だ。フランスでもドイツでもりんごは大切な果物として愛される。葡萄が栽培できなかったイングランドやスコットランドでは、果物としてだけでなくりんご酒の原料として珍重される。そして、新大陸の発見と共に、りんごは船に乗って北米大陸に渡る。

かたや、東に向かったりんごは小さくなった。中国人はこの果実を林檎と呼んだ。そして船に乗って日本に渡ってきたりんごはさらに小さくなった。日本では観賞用として愛でられた。平安時代の人はこれを林檎と呼んでいる。かならずしも観賞用だけではなかったらしい。小さくてすっぱいけど、どうも身体に良いものらしいと食用にしていた人もいたらしい。室町時代の女官の日記に、「りんこ一折もらった」という記述がある。もしかしたらこの女官の子供も、私のようにりんごのおかげで助かったのかも知れない。ただ、日本においては柿・桃・蜜柑のような、一般的な果物としては普及しなかったみたいだ。


さて、なぜ苹果が林檎に代わったのかという話にもどる。

明治18年の内閣制度への移行、明治23年の大日本帝国憲法と教育勅語の発布、明治27年の日清戦争あたりにその理由があるのではないかと、私は考えている。

庶民は昔から天皇のことを、「天子さま」・「みかど」・「おかみ」などと呼んできた。「天皇陛下(てんのうへいか)」という言葉を日本人が使い始めたのは、上記の出来事の明治10年代の後半から20年代の後半にかけてである。

「今年のヘイカは出来が悪いな」、「ヘイカの値段が下がってきたよ」、「このヘイカは旨くないな」などの庶民の会話に警察官が注意したのかも知れない。いや、それよりも、多くの日本人がこの「ヘイカ」という言葉に、違和感を持ち始めたのではあるまいか。昔からわが国にある盆栽の小さな「姫林檎」と「苹果」とが同じ種類の植物であることに、この頃になって人々は気が付いたのかも知れない。そして、わずかな時間で、苹果は林檎に代わった。

この絵は、正岡子規が晩年に描いたものである。素人にしてはずいぶん上手だと思う。七月二十四日晴、西洋リンゴ一、日本リンゴ四、とある。子規が34歳で亡くなったのは明治35年の9月である。これを描いたのは明治33年か34年頃ではあるまいか。

島崎藤村の「若菜集」が発刊されたのは明治30年である。この中の「初恋」の詩に、はっきりと「林檎」とうたっている。よって、明治30年ごろには、日本人は苹果という言葉を捨て、林檎という言葉を使っていたことがわかる。この項のおしまいは、この「初恋」の詩で終えたい。


まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは

薄紅の秋の実に 人こひ初(そ)めしはじめなり

わがこころなきためいきの その髪の毛にかかるとき

たのしき恋の盃を 君が情けに酌みしかな

林檎畑の樹の下に おのつ”からなる細道は

誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけり








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