2021年1月25日月曜日

大根の話(2)

 中学生の時、野島先生が「大根の原産地はコーカサス地方だ」と胸を張っておっしゃったのをはっきりと覚えている。野島先生の担当する学科がなんであったか記憶にない。ただ、不思議なことに、この先生の授業の大半は、野菜の作り方や野菜の原産地・いつ頃日本に渡来したかなど、野菜の話ばかりだった。

戦前に農業の学校を卒業して農業に従事された。いってみればお百姓さんだ。兵隊にも行かれた。戦後の混乱の中で中学校教師の資格を取った、と自分でおっしゃっていた。だから、農業の話以外にはネタがなかったのかも知れない。野菜の話になると先生はいきいきされていた。

今だったら、「高校受験の役に立たない」と父兄から文句が出そうだが、当時そんなことを言う親はいなかった。この先生は、私の両親より5歳年長だったから、今年で100歳になられる。少し認知症がはじまったようだと地元の友人から聞いたが、今なおご健在である。教師を辞めてからも農作業をされていた。それが長寿と関係あるのかも知れない。

野島先生は、コーカサス地方だと言われたが、そうとは断定できないらしい。ロシアにニコライ・バビロフという有名な植物学者がいた。野菜の起源・原産地などを研究する人にとって、この人は経済学におけるアダム・スミスのような存在らしい。

バビロフは、中央アジア・西南アジア(トルコ・エジプト)・インド北部の三カ所で、別々に発祥したと説いている。コーカサス地方はトルコのすぐ北だから、野島先生の話は間違いではない。近頃では、欧州東部のバルカン半島も発祥の地だという学者もいる。

そして多くの書物に、「中国が第二原産地」と書かれている。りんごがヨーロッパで品種改良されたように、大根は中国で品種改良されたらしい。学者の誰も言ってないのだが、私は「第三の原産地は日本である」とひそかに考えている。

青首大根・三浦大根・亀戸大根・聖護院大根・辛味大根だけではない。1メートルをゆうに超える守口(もりぐち)大根、でかいのは40キロを超える世界最大の桜島大根など、日本は世界一の大根の品種改良大国なのである。赤大根などを含めると、日本には50種類もの大根があるそうだ。


大根をつくって感じることは、この野菜には多くの料理方法があり、また保存がきくことである。収穫したばかりの大根は、大根おろし・刺身のつま・薄切りのサラダなどでなまで食べる。なまの大根には強力な殺菌効果がある。「酢牡蛎」に大根おろしを入れるのはこのためだ。昔の人は風邪薬として大根を食べたと聞いた。風邪のバイ菌をやっつけるならコロナにも効くはずだ、と考え近頃私はせっせと大根を食べている。

煮物やおでんも旨い。沢庵漬けだと3か月・半年先に美味しく食べられる。よく干して多めの塩で漬けると1年先、2年先でも食べることができる。

大根は三月にとうが立ち、四月に花が咲く。二月に入っての我々の大切な農作業は、切り干し大根をつくることだ。小さく切ってむしろに干す。聖護院大根は5つか6つに輪切りにして、竹の串に通して寒風にさらす。ひと月ほどして、これを油揚げと一緒に煮るとじつに旨い。味噌汁に入れても旨い。二月まで畑に置いた大根は甘みが強い。

「古代エジプトでは、ピラミッド建設の労務者にタマネギ・ニンニクを配給した」と昔本で読んだ。ビールも配給されたらしい。タマネギ・ニンニクを油でいためビールを飲み、肉を食べれば精力がつきそうだ。でも、これではむねやけするのでは、と今まで労務者に同情していた。

今回、青葉高先生の「日本の野菜」という本を読んで、「大根も一緒に配給された」と知った。口直しに、なまの大根をかじったのであろう。なるほど、これなら合点がいく。ピラミッド建設の労務者のことを思い、なんだか安心した。

不思議なことに、大根のヨーロッパでの普及は意外に遅く、イギリスでは15世紀、フランスでは16世紀といわれる。ラディシュという小型の大根である。現在でもヨーロッパでは大根は東アジアの国々に比べ、さほど重要な野菜とは見られてないようだ。


コロナ問題で、日本を含む東アジア人が欧州人に比べて極端に患者が少ないことが話題になった。ある学者は「ファクターX」と言った。このファクターXとは、実は大根ではあるまいか。私はひそかにそう考えて、せっせと大根おろしを食べている。気のせいか、なんだか効能があるような気がする。








2021年1月18日月曜日

大根の話

 日本という国ができて今日まで、日本人が一番大量に食べた野菜は何か、と空想している。

日本の建国がいつかというのはむずかしい問題だ。縄文・弥生時代には国はなかった。天照大神・スサノオノミコトの実在性には自信が持てない。神武天皇も自信がない。日本武尊(やまとたけるのみこと)なら大丈夫だろう。

3-4世紀に活躍した人で、仁徳天皇の曽祖父にあたる。日本武尊の時代に日本という国の基礎ができた、と私は考えている。以来1700年、日本人が一番多く食べた野菜は、「大根に違いあるまい」と思う。

日本人が現在食べている野菜の95%以上は外国から入ってきた。太古の昔から日本列島に自生していた野菜は、「やまいも・蕗(ふき)・芹(せり)・三つ葉・野蒜(のびる)・独活(うど)・山葵(わさび)・蓼(たで)」ぐらいだと、その方面の研究者は述べておられる。渡来の時期は、縄文・弥生時代から古墳・奈良・平安・鎌倉・室町・江戸・明治以降とそれぞれに分類される。古い時代に渡来した野菜に強みがある。

大根は、大豆(だいず)・牛蒡(ごぼう)・生姜(しょうが)・瓜(うり)と共に、第一陣として縄文時代に日本列島に入ってきた。よって、日本武尊も弟橘媛(おとたちばなひめ)も大根を食べていたことになる。

大根に間違いないと思うのは、自分の20年間の野菜作りの経験で、この栽培がとても容易だからだ。虫がつかないので農薬はまったく不要である。我々は無農薬栽培を目指しているのだが、白菜やキャベツにはどうしても少量の農薬・オルトランを使う。昔の人にとって、大根は作りやすい野菜だったと思う。

茄子の渡来も弥生時代と古いのだが、ナス科の野菜は連作を嫌う。同じ場所に続けて植えると連作障害で虫がつきやすく、収穫量も落ちる。この点、アブラナ科の大根は毎年同じ場所でうまく栽培できるので助かる。このようなわけで、大根という野菜は日本人にとって半端な野菜ではない。昔から今に至るまで、格別に重要な野菜だと言っていい。

私があらためて力こぶを入れなくても、「徒然草」の中に、「熱狂的な大根ファン」が登場する。これを読むたびに、いろいろと想像をめぐらせて、クスリと笑ってしまう。第68段に次のようにある。

「九州に何某(なにぼう)とかいう押領使(警察官)がいた。大根を万事によく利く薬だと言って、毎朝かならず2本つ”つ焼いて食うこと長年におよんだ。あるとき、屋敷に賊がおし寄せてきて一人で戦っていたら、武士が二人現れて、命を惜しまず戦って敵をみな追い返してしまった。” 普段は見かけないお二人ですがどなたさまですか ” と聞くと、” 長年頼みにして毎朝召しあがっていただいている大根です ” と言って消えてしまった。深く信心するとこういう功徳もあるものとみえる」

ここまでくると、大根大好きというより、一種の信仰である。味噌も醤油もない時代だ。焼いた大根に塩をふって食べたのだろうが、本当に毎朝2本の大根を食えるものかと首をかしげる。

きのどくなのは家族と使用人である。「大根は身体にいいんだ。もっと食べろ!」と主人に強制され、「勘弁してください」と逃げまわっている妻子や使用人の姿が目に浮かぶ。

これほど熱狂的な人は少なかったと思うが、こういう話があるところを見ると、大根は身体に良いんだぜ、と当時の人々はせっせと大根を食べていたのだと思う。


私はこの20年間、月1回1週間、東京から郷里の広島県の農園に帰り農作業をしている。昨年はコロナで帰れなかった。「東京からコロナを持って帰られたらたまらん。今帰ると村八分になるよ」と、一緒にやっている小学校時代の友人二人に言われて、郷里に帰らなかったからだ。そのようなわけで、この写真は一昨年につくった青首大根だ。

何年も中断すると百姓の腕がにぶってしまう。今年はぜひ農作業をやりたい。早くコロナが片付いて欲しい。近頃は奈良・平安時代の人々のように「疫病退散」を神仏に祈っている。英語は下手だが、祝詞(のりと)と「般若心経」は得意である。






2021年1月12日火曜日

天皇の受けた衝撃・6月9日

 昭和天皇と鈴木貫太郎(10)

6月9日の午前、天皇は内大臣の木戸を通じて二人の東大教授が説いたことを聞き、大きな衝撃を受けた。その日の午後3時、参謀総長の梅津美治郎が参内して、大連出張の報告を行う。

梅津は天皇に書面を添えて、支那派遣軍と関東軍の現状を報告する。軍令部総長の豊田副武が、根拠のない希望的観測や楽観論を述べ続けているのにくらべ、梅津の報告は正直でかつ客観的なものである。

天皇は梅津に向かって「沖縄のあと揚子江下流方面に米軍の来攻があるとして、敵は何個師団を上陸させるだろうか」と聞く。

梅津は「沖縄には敵は4個師団、予備部隊として3個師団、計7個師団を用意した。上海周辺に上陸するとすれば、8個師団を準備するのではないか」と答える。

「それに対してわが軍はどのように戦うのか」と天皇は聞く。

「この地域の日本軍は第13軍の担当地域であり、師団が8つと、航空師団が1つ、それに独立旅団がいくつかある。ただ米軍の8個師団と対等に戦うことはできない。士気は旺盛だが弾薬が欠乏しており一合戦すら戦うことはできない」と答える。さらに続けて、「支那派遣軍の全ての戦力(約105万人)をあわせても、アメリカ軍の8個師団(約16万人)の力ぐらいしかない」と梅津は答える。

天皇はびっくりする。支那派遣軍こそが、帝国陸軍最強の兵力と実力を持っている、と固く信じていたからだ。梅津が退出したあと、天皇は考えに沈んだ。目眩がする思いだった。


そのあとで天皇は散歩に出た。昨日からの雨はあがったばかりだ。皇居の木々の緑はかがやいている。あじさいの花は濡れている。背の高い栗の小道を天皇は歩く。歩きながら頭に浮かぶのは、「陛下はどうなされているのかという国民の声なき声がある」と語ったという二人の東大教授の言葉である。

侍従武官の一人から、沖縄の梅雨が明けるのは6月23日ごろだとも聞いた。しかし梅雨が明ける前に、沖縄の戦いは終わってしまうのではないかと思う。そうだ。6月23日には田植えをしなければならない。毎年この日に、吹上御所の圃場(ほじょう)で田植えをおこなっている。

田植えのことを思えば、根こそぎ動員がはじまって、農家の田植えの手は足りているのだろうかと考える。そして天皇は、宮中でもっとも大切な祭儀である新嘗祭(にいなめさい)のことを思う。新嘗祭のお供えやお神酒をつくる米は吹上の圃場のものだけではない。全国の篤農家から各府県ごとに、精米1升・精粟5合が毎年10月30日までに宮内省に納められるように決めてある。しかし、たとえ1升であっても、今の国民にとってこの供出は苦しいのではあるまいか。今年の新嘗祭の儀式は古式どおりにおこなうことはできないかもしれない。

天皇はひとりうなずいたのであろう。

もしかしたら、天皇が終戦をひそかに決意したのは、6月9日の夕刻であったかもしれない。







2021年1月4日月曜日

鈴木総理は何を考えているのか?

 昭和天皇と鈴木貫太郎(9)

鈴木貫太郎も自分の考えをだれにも話していない。外務大臣に入閣を求められた東郷が、今後の戦局の見通しを問うたのに対し、「なお2ー3年は戦争を続けることができるだろう」と答え、東郷を呆れさせている。

もちろんこれは鈴木の本心ではない。腹心ともいえる書記官長の迫水にも、海軍の後輩である海軍大臣の米内光政にも、自分の本心を漏らしていない。

鈴木は三方ヶ原(みかたがはら)の戦いの逸話が好きだ。

閣僚や秘書官の多くはこの話をしばしば聞かされて、あきあきしていた。前年、米内光政・井上成美の二人から”極秘の終戦工作”を命じられていた海軍少将の高木惣吉は、「こんな話を繰り返しているようでは鈴木内閣での終戦は到底無理だ」とあきらめていた。そして鈴木の悪口をあちこちで言いふらしていた。高木は鈴木の真意を見抜けなかったのだ。

これは、武田信玄と徳川家康とが戦い、家康がこっぱみじんに負けた時の話だ。

三万の兵を有す信玄は、家康の部下が守る二俣城(ふたまたじょう)を攻撃しこれを落とした。天竜川沿いにあるこの城は家康の居城・浜松城の北20キロにある。これを落とした信玄の軍は、浜松城の北に広がる三方ヶ原の台地にむかった。一万の家康の軍隊がこれを迎えうったが、徳川軍は総崩れとなり、三千人の死者を残して敗退した。午後六時、家康はかろうじて浜松城の北口から城内に逃げ込んだ。

ここからが鈴木の得意とする話である。

家康はこの北の口を守る鳥居元忠に、城門を閉じないで開けておけ、外から見えるように薪を焚かせよと命じた。武田軍の先鋒隊が城門前まで来た。城門は開かれており、見えるのは赤々と燃えるかがり火だ。武田軍は躊躇して進まなかった。

鈴木は閣僚や秘書官に、つぎのように解説する。

家康は城門を開け放し、来るなら来てみろと敵方に叫んだ。武田側はなにか策略があるなと思い、城攻めを断念して撤収したのだと。

だれにも語らなかったが、鈴木はこの時、次のように考えていたのだ。

「どこまでも戦い抜くぞとの決意を示すのだ。そして和平の用意があることをわずかに匂わせば、敵側は荒っぽい無条件降伏の要求をしてこないのではないか。敵はなんらかの譲歩をおこない、こちら側に戦いの継続を断念することができる条件を提示してくるに違いない」


6月14日の重臣懇談会でも、鈴木のこの姿勢は一貫している。参加した重臣は、近衛・平沼・若槻・岡田・広田・東條・小磯たちである。複数の証言を合わせると次のようなやりとりがあった。

元首相の若槻礼次郎が言う。「この戦争に勝つ見込みがないとすれば、何らかの手段で和平の考えをすべきだ。ドイツが降伏した以上は、日本も何らかの決意をしなければならない」

東條・小磯の二人はこれに対し、「絶対反対」を称えた。総理の鈴木も、この二人の陸軍大将に同調して若槻にくってかかった。若槻はこれに対して、「このような状態においてなお抗戦することにいかなる意味があるのか」と問うた。

これに対する鈴木の反論はまったく論理的なものではない。腕白小僧の破れかぶれの返答のようだ。「徹底抗戦して利あらざる時は死あるのみだ」と机を叩いて大声を張り上げた。この時、東條英機ただ一人がおおいにうなずいたという。

この時点においても、鈴木は当面の敵である陸軍を、さしあたって今なお陸軍内部に影響力を持っている東條元首相を、徹底的にたぶらかしておく必要があると考えていたのだ。東條大将は鈴木老人のたぶらかしに見事に引っかかった。そして、わが意を得たりとばかりに大いにうなずいたのである。







梅津参謀総長は何を考えているのか?

 昭和天皇と鈴木貫太郎(8)

戦争を終結するにおいて、6人の中でその職務権限からして一番の重要人物は、参謀総長の梅津美治郎であろう。陸軍の大物である梅津は表には自分の考えを一切出さない。しかし、彼は確固たる自己の考えを持っている。

部下である参謀本部次長の河辺虎四郎、作戦部長の宮崎周一以下は、本土決戦を唱え、その準備に没頭している。本気で本土決戦を行なうのであれば、関東軍・支那派遣軍・朝鮮軍の中から精鋭を選び出し、日本本土に移す必要がある。梅津はそれを行なおうとしない。部下たちからの報告を黙って聞きながら、総長室で葉巻の煙をゆっくりと吐き出すだけである。関東軍のごく一部の戦車部隊は本土に移動したが、これは例外といえる。

梅津は戦争遂行の最高責任者として、当然しなければならない決定を避けている。その態度保留の姿勢に、本土決戦派の次長・河辺、作戦部長・宮崎、作戦課長・天野の梅津を批判する声は日に日に大きくなっている。それでも梅津はあがってくる書類に判を押さず、黙って葉巻をくゆらせている。この葉巻は南方からの戦利品らしい。

梅津は決断できない男なのか。

いや。そうではない。昭和11年の2・26事件の時に、彼はほかの師団長のように右顧左眄(うこさべん)しなかった。仙台の第二師団長だった梅津がすぐ陸軍中央に打った電報は、「断固反乱軍を鎮圧すべし。命令あれば第二師団長はただちに兵を率いて上京する」であった。梅津は必要な時には決断できる男なのである。

あの東條英機ですら、陸士で2期先輩にあたり、陸大首席卒業の梅津美治郎に対してものを言う時は、襟を正して遠慮げに発言したという。梅津は日露戦争に陸軍少尉で出征した。東條たち陸士17期以降は日露戦には参加していない。この時、陸軍の中で一番人望があったのはこの梅津美治郎であろう。近衛内閣が総辞職した時、東條よりもこの梅津を次期首相に推す声が強かった。しかし、関東軍総司令官を今交代させるわけにはいかないとの理由で、梅津ではなく東條が総理大臣に選ばれた経過がある。河辺や宮崎など中将・少将クラスの若輩がいかにわめこうとも、梅津は微動だにしない。ゆうゆうと葉巻の煙を口から吐き出すばかりである。

じつは梅津は何もしていないわけではない。何一つ決めることができないと部下たちに批判されていること自体が、じつは彼がやりたかったことなのである。

そう。陸軍の作戦の最高責任者である梅津は、本土決戦をやる前に戦争をやめるべきだと考えているのだ。陸軍大臣の阿南も、軍令部総長の豊田も、そして天皇もまた、一度勝利を収めてからの終戦を考えている。もちろん梅津もそうであってほしいとは思う。しかし聡明な梅津はそれは絶対に無理であると考えている。

そうかといって、梅津は戦争をやめるべきだと自分から言うつもりはない。戦争を直接指揮している参謀総長の立場としてはそれは言えないのだ。梅津はこのこと、すなわち終戦への方向転換についての発言を、海相の米内と総理の鈴木にひそかに期待している。

最後の土壇場になったら、同じ大分県出身で陸士3期後輩の阿南陸軍大臣を抑え切れる自信があったのであろう。梅津が歩兵第一連隊の新任の中尉のとき阿南は見習士官だった。梅津が陸軍次官のとき阿南は人事局長だった。また梅津が関東軍総司令官だった時、阿南はその配下の方面軍司令官だった。同郷の後輩の阿南は、つねに梅津に兄事し、尊敬してきた。

事実、8月9日の最初の御聖断のあと、阿南陸軍大臣が次官や軍務局長の突き上げにあい、陸軍のクーデター計画について梅津の意見を聞きに来たとき、「絶対にまかりならぬ。ただ御聖断に従うべし」と一喝している。


総理・鈴木貫太郎、海相・米内光政が終戦に向けて渾身の力をふりしぼったことは、後世に語り続けられている。陸相・阿南惟幾もまた、8月15日の未明に割腹自殺して全陸軍の不満を抑え切った。多くの人はそれを徳としている。それに比べ、参謀総長・梅津美治郎のかくれた功績については多くの日本人は気がついていない気がする。

終戦の時、梅津美治郎が参謀総長であったことは、日本国にとって最大の幸運であった。


梅津美治郎