2021年1月4日月曜日

鈴木総理は何を考えているのか?

 昭和天皇と鈴木貫太郎(9)

鈴木貫太郎も自分の考えをだれにも話していない。外務大臣に入閣を求められた東郷が、今後の戦局の見通しを問うたのに対し、「なお2ー3年は戦争を続けることができるだろう」と答え、東郷を呆れさせている。

もちろんこれは鈴木の本心ではない。腹心ともいえる書記官長の迫水にも、海軍の後輩である海軍大臣の米内光政にも、自分の本心を漏らしていない。

鈴木は三方ヶ原(みかたがはら)の戦いの逸話が好きだ。

閣僚や秘書官の多くはこの話をしばしば聞かされて、あきあきしていた。前年、米内光政・井上成美の二人から”極秘の終戦工作”を命じられていた海軍少将の高木惣吉は、「こんな話を繰り返しているようでは鈴木内閣での終戦は到底無理だ」とあきらめていた。そして鈴木の悪口をあちこちで言いふらしていた。高木は鈴木の真意を見抜けなかったのだ。

これは、武田信玄と徳川家康とが戦い、家康がこっぱみじんに負けた時の話だ。

三万の兵を有す信玄は、家康の部下が守る二俣城(ふたまたじょう)を攻撃しこれを落とした。天竜川沿いにあるこの城は家康の居城・浜松城の北20キロにある。これを落とした信玄の軍は、浜松城の北に広がる三方ヶ原の台地にむかった。一万の家康の軍隊がこれを迎えうったが、徳川軍は総崩れとなり、三千人の死者を残して敗退した。午後六時、家康はかろうじて浜松城の北口から城内に逃げ込んだ。

ここからが鈴木の得意とする話である。

家康はこの北の口を守る鳥居元忠に、城門を閉じないで開けておけ、外から見えるように薪を焚かせよと命じた。武田軍の先鋒隊が城門前まで来た。城門は開かれており、見えるのは赤々と燃えるかがり火だ。武田軍は躊躇して進まなかった。

鈴木は閣僚や秘書官に、つぎのように解説する。

家康は城門を開け放し、来るなら来てみろと敵方に叫んだ。武田側はなにか策略があるなと思い、城攻めを断念して撤収したのだと。

だれにも語らなかったが、鈴木はこの時、次のように考えていたのだ。

「どこまでも戦い抜くぞとの決意を示すのだ。そして和平の用意があることをわずかに匂わせば、敵側は荒っぽい無条件降伏の要求をしてこないのではないか。敵はなんらかの譲歩をおこない、こちら側に戦いの継続を断念することができる条件を提示してくるに違いない」


6月14日の重臣懇談会でも、鈴木のこの姿勢は一貫している。参加した重臣は、近衛・平沼・若槻・岡田・広田・東條・小磯たちである。複数の証言を合わせると次のようなやりとりがあった。

元首相の若槻礼次郎が言う。「この戦争に勝つ見込みがないとすれば、何らかの手段で和平の考えをすべきだ。ドイツが降伏した以上は、日本も何らかの決意をしなければならない」

東條・小磯の二人はこれに対し、「絶対反対」を称えた。総理の鈴木も、この二人の陸軍大将に同調して若槻にくってかかった。若槻はこれに対して、「このような状態においてなお抗戦することにいかなる意味があるのか」と問うた。

これに対する鈴木の反論はまったく論理的なものではない。腕白小僧の破れかぶれの返答のようだ。「徹底抗戦して利あらざる時は死あるのみだ」と机を叩いて大声を張り上げた。この時、東條英機ただ一人がおおいにうなずいたという。

この時点においても、鈴木は当面の敵である陸軍を、さしあたって今なお陸軍内部に影響力を持っている東條元首相を、徹底的にたぶらかしておく必要があると考えていたのだ。東條大将は鈴木老人のたぶらかしに見事に引っかかった。そして、わが意を得たりとばかりに大いにうなずいたのである。







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