2021年1月4日月曜日

梅津参謀総長は何を考えているのか?

 昭和天皇と鈴木貫太郎(8)

戦争を終結するにおいて、6人の中でその職務権限からして一番の重要人物は、参謀総長の梅津美治郎であろう。陸軍の大物である梅津は表には自分の考えを一切出さない。しかし、彼は確固たる自己の考えを持っている。

部下である参謀本部次長の河辺虎四郎、作戦部長の宮崎周一以下は、本土決戦を唱え、その準備に没頭している。本気で本土決戦を行なうのであれば、関東軍・支那派遣軍・朝鮮軍の中から精鋭を選び出し、日本本土に移す必要がある。梅津はそれを行なおうとしない。部下たちからの報告を黙って聞きながら、総長室で葉巻の煙をゆっくりと吐き出すだけである。関東軍のごく一部の戦車部隊は本土に移動したが、これは例外といえる。

梅津は戦争遂行の最高責任者として、当然しなければならない決定を避けている。その態度保留の姿勢に、本土決戦派の次長・河辺、作戦部長・宮崎、作戦課長・天野の梅津を批判する声は日に日に大きくなっている。それでも梅津はあがってくる書類に判を押さず、黙って葉巻をくゆらせている。この葉巻は南方からの戦利品らしい。

梅津は決断できない男なのか。

いや。そうではない。昭和11年の2・26事件の時に、彼はほかの師団長のように右顧左眄(うこさべん)しなかった。仙台の第二師団長だった梅津がすぐ陸軍中央に打った電報は、「断固反乱軍を鎮圧すべし。命令あれば第二師団長はただちに兵を率いて上京する」であった。梅津は必要な時には決断できる男なのである。

あの東條英機ですら、陸士で2期先輩にあたり、陸大首席卒業の梅津美治郎に対してものを言う時は、襟を正して遠慮げに発言したという。梅津は日露戦争に陸軍少尉で出征した。東條たち陸士17期以降は日露戦には参加していない。この時、陸軍の中で一番人望があったのはこの梅津美治郎であろう。近衛内閣が総辞職した時、東條よりもこの梅津を次期首相に推す声が強かった。しかし、関東軍総司令官を今交代させるわけにはいかないとの理由で、梅津ではなく東條が総理大臣に選ばれた経過がある。河辺や宮崎など中将・少将クラスの若輩がいかにわめこうとも、梅津は微動だにしない。ゆうゆうと葉巻の煙を口から吐き出すばかりである。

じつは梅津は何もしていないわけではない。何一つ決めることができないと部下たちに批判されていること自体が、じつは彼がやりたかったことなのである。

そう。陸軍の作戦の最高責任者である梅津は、本土決戦をやる前に戦争をやめるべきだと考えているのだ。陸軍大臣の阿南も、軍令部総長の豊田も、そして天皇もまた、一度勝利を収めてからの終戦を考えている。もちろん梅津もそうであってほしいとは思う。しかし聡明な梅津はそれは絶対に無理であると考えている。

そうかといって、梅津は戦争をやめるべきだと自分から言うつもりはない。戦争を直接指揮している参謀総長の立場としてはそれは言えないのだ。梅津はこのこと、すなわち終戦への方向転換についての発言を、海相の米内と総理の鈴木にひそかに期待している。

最後の土壇場になったら、同じ大分県出身で陸士3期後輩の阿南陸軍大臣を抑え切れる自信があったのであろう。梅津が歩兵第一連隊の新任の中尉のとき阿南は見習士官だった。梅津が陸軍次官のとき阿南は人事局長だった。また梅津が関東軍総司令官だった時、阿南はその配下の方面軍司令官だった。同郷の後輩の阿南は、つねに梅津に兄事し、尊敬してきた。

事実、8月9日の最初の御聖断のあと、阿南陸軍大臣が次官や軍務局長の突き上げにあい、陸軍のクーデター計画について梅津の意見を聞きに来たとき、「絶対にまかりならぬ。ただ御聖断に従うべし」と一喝している。


総理・鈴木貫太郎、海相・米内光政が終戦に向けて渾身の力をふりしぼったことは、後世に語り続けられている。陸相・阿南惟幾もまた、8月15日の未明に割腹自殺して全陸軍の不満を抑え切った。多くの人はそれを徳としている。それに比べ、参謀総長・梅津美治郎のかくれた功績については多くの日本人は気がついていない気がする。

終戦の時、梅津美治郎が参謀総長であったことは、日本国にとって最大の幸運であった。


梅津美治郎





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