昭和天皇と鈴木貫太郎(10)
6月9日の午前、天皇は内大臣の木戸を通じて二人の東大教授が説いたことを聞き、大きな衝撃を受けた。その日の午後3時、参謀総長の梅津美治郎が参内して、大連出張の報告を行う。
梅津は天皇に書面を添えて、支那派遣軍と関東軍の現状を報告する。軍令部総長の豊田副武が、根拠のない希望的観測や楽観論を述べ続けているのにくらべ、梅津の報告は正直でかつ客観的なものである。
天皇は梅津に向かって「沖縄のあと揚子江下流方面に米軍の来攻があるとして、敵は何個師団を上陸させるだろうか」と聞く。
梅津は「沖縄には敵は4個師団、予備部隊として3個師団、計7個師団を用意した。上海周辺に上陸するとすれば、8個師団を準備するのではないか」と答える。
「それに対してわが軍はどのように戦うのか」と天皇は聞く。
「この地域の日本軍は第13軍の担当地域であり、師団が8つと、航空師団が1つ、それに独立旅団がいくつかある。ただ米軍の8個師団と対等に戦うことはできない。士気は旺盛だが弾薬が欠乏しており一合戦すら戦うことはできない」と答える。さらに続けて、「支那派遣軍の全ての戦力(約105万人)をあわせても、アメリカ軍の8個師団(約16万人)の力ぐらいしかない」と梅津は答える。
天皇はびっくりする。支那派遣軍こそが、帝国陸軍最強の兵力と実力を持っている、と固く信じていたからだ。梅津が退出したあと、天皇は考えに沈んだ。目眩がする思いだった。
そのあとで天皇は散歩に出た。昨日からの雨はあがったばかりだ。皇居の木々の緑はかがやいている。あじさいの花は濡れている。背の高い栗の小道を天皇は歩く。歩きながら頭に浮かぶのは、「陛下はどうなされているのかという国民の声なき声がある」と語ったという二人の東大教授の言葉である。
侍従武官の一人から、沖縄の梅雨が明けるのは6月23日ごろだとも聞いた。しかし梅雨が明ける前に、沖縄の戦いは終わってしまうのではないかと思う。そうだ。6月23日には田植えをしなければならない。毎年この日に、吹上御所の圃場(ほじょう)で田植えをおこなっている。
田植えのことを思えば、根こそぎ動員がはじまって、農家の田植えの手は足りているのだろうかと考える。そして天皇は、宮中でもっとも大切な祭儀である新嘗祭(にいなめさい)のことを思う。新嘗祭のお供えやお神酒をつくる米は吹上の圃場のものだけではない。全国の篤農家から各府県ごとに、精米1升・精粟5合が毎年10月30日までに宮内省に納められるように決めてある。しかし、たとえ1升であっても、今の国民にとってこの供出は苦しいのではあるまいか。今年の新嘗祭の儀式は古式どおりにおこなうことはできないかもしれない。
天皇はひとりうなずいたのであろう。
もしかしたら、天皇が終戦をひそかに決意したのは、6月9日の夕刻であったかもしれない。
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