2021年2月1日月曜日

ルーズベルトとグルー

昭和天皇と鈴木貫太郎(11)

民主党の大統領、フランクリン・D・ルーズベルトは中国好きで日本嫌いだった。彼にかぎらずアメリカの民主党政権の多くはそうであった。現在でもこの傾向は感じられる。ちなみに日露戦争当時、日本に好意的に動いてくれたセオルド・ルーズベルトはフランクリンの親戚だが、この人は共和党選出の大統領である。

フランクリンが中国好きになったのは、母親が富豪デラノ家の娘だった ことに理由がある。デラノ家は、中国貿易で成功したラッセル商会の最初の六人の共同経営者の一員である。

英ジャーディン・マディソン商会と同じく、1830年代から広州・香港をベースに、トルコ・インド産アヘンを中国に売って巨富を得ていた。彼のミドルネームの「D」はデラノ家の「D」である。このようなわけで、フランクリンは幼い頃から、母の兄弟がおみやげで持ち帰る中国製の玩具や絵画・工芸品にかこまれて育った。中国に強い親しみを持っていた彼が、日本の軍事的な中国進出を中国いじめと感じたのは、無理からぬことである。

43年1月のチャーチルとのカサブランカ会談では、「日本に対して無条件降伏を要求する」と説き、「条件付き講和が現実的」と考えていたチャーチルを白けさせている。その年の11月、蒋介石を含めたカイロ会談では、日本に対してさらに苛酷な内容の宣言を主張した。

ところが、44年5月、ワシントンの国務省でおかしなことがおきた。

その年の1月に新設された極東問題局長に就任したばかりのホーンベックが更迭され、グルーが後任になったのだ。ホーンベックは国務省きっての中国びいき日本嫌いであり、ルーズベルトとはそこが一致していた。かたやグルーは、自他とも認める親日派である。

この時65歳のジョゼフ・グルーの経歴はこうである。異例の10年におよぶ東京での駐日大使をつとめ、42年の交換船で帰国していた。ボストンの名門家庭に生まれた彼は、全寮制のグルトン校に学び、ハーバード大学に進んだ。ルーズベルトは両校でグルーの2年後輩になる。もっとも二人が学生時代に深い交流があったという形跡はない。いま一つ、グルーとルーズベルトには接点がある。グルーの父の兄は、ラッセル商会の共同経営者であったことだ。

極東問題局長になったグルーは、東京の大使館時代の部下たちで周辺をかためる。参事官だったドーマンを特別補佐官に、一等書記官だったオーヴァを日本課長に任命する。ドーマンは宣教師の息子として大阪に生まれた。東京の暁星中学に学んだドーマンは、日本語を母国語として話す。彼は東京の大使館時代には、本物の歌舞伎役者を大使館に招き、同好のアメリカ人に着物を着させて歌舞伎の稽古をしていたほどの日本通である。

この年の12月、グルーは国務次官に就任する。20年前に一度やっているので二度目になる。国務省は東京のアメリカ大使館に占領された、と軽口をたたくアメリカ人もいた。

中立国経由でこのニュースを聞いた外務省・陸海軍・宮廷の高官たちは、だれもが首をかしげた。首をかしげながらも、親日派のグルーの登場に期待を寄せた。

実はグルーは、大使として日本に赴任する以前から日本の文化・歴史に造詣があった。理由は、夫人のアリスの曽祖父(オリバー・ペリー)の弟が、幕末に日本に開国を迫ったあのマシュー・ペリー提督だったからだ。かつ、アリスの父は明治30年代に三年間、慶應義塾で英文学を教えたので、母も本人も東京で生活して、アリスは日本語が出来た。昭和7年、グルーが大使として信任状を提出したあとのお茶会で、このことを聞いた昭和天皇がとても喜ばれたという話が残っている。


当然ながら、このような重要人事はルーズベルトの指示があってのことだ。じつは、ルーズベルトは考えを変えたのだ。いくばくかの譲歩をしてでも、日本との戦争を早く終わらせるほうが、アメリカにとって得策だと判断したのである。なぜ彼はそう考えたのか。

このことについてはっきりと触れた歴史家は、不思議なことに、アメリカにも日本にもほとんどいない。これについてはっきりと述べたのは、鳥居民先生一人ではあるまいか。

ルーズベルトの考えを一変させたのは、支那派遣軍が昭和19年4月から20年1月にかけておこなった「一号作戦」にある、と鳥居先生はおっしゃる。

今までだれも語らなかった、この「一号作戦」について語りたい。

フランクリン・D・ルーズベルト










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