2021年2月8日月曜日

一号作戦とは何か?

 昭和天皇と鈴木貫太郎(12)

一号作戦は大陸打通(たいりくだつう)作戦ともいわれ、昭和19年4月から20年1月にかけておこなわれた。支那派遣軍の半分の51万人を使っての、蒋介石の国民政府軍への大攻勢である。参謀本部作戦課長の服部卓四郎が主導した。

中国大陸を南北に走る2500キロの鉄道とその沿線を制圧する。そうすれば、日本の商船隊が沈められても、インドシナから上海や天津を経由して、長い鉄路とわずかの海路で南方の資源と兵員を日本に運ぶことができる。いま一つは、この鉄道沿線にあるアメリカ軍のB29航空基地を占領・破壊し、対日空襲を阻止できる。服部はこう主張した。

だが、この野心的で壮大な二つの目標が充分にかなえられるとは、服部を含む参謀本部は思っていない。勝ち戦(いくさ)を新聞で伝え、国民の士気を維持したいというのが、参謀本部の本心であった。

この一号作戦について語る人々は、現在まで、だれもがこれを非難してきた。無謀で愚劣な作戦だ、やみくもに断行された意味のない戦いだった、とずっと批判してきた。

ところが、この一号作戦はいくつもの要因が重なり、蒋介石と国民党政府の威信を突き崩し、その力を大きく削いでしまった。すなわち、延安の毛沢東の力を強大なものにさせた。なぜなのか?


日本側はこの作戦のため、内蒙古・山西・山東・河北などの中国北部の兵力を大きく引き抜いた。この結果、延安にある毛沢東の軍隊と工作隊は、中国北部で大手を振って活動するようになった。村々の住民を宣伝教化し、国民党政府の組織をかたっぱしから潰していき、共産党の支配地域を拡大したのである。

日本軍の攻撃の矢面に立ったのは100万人の国民党軍である。50万人以上を失った。日本軍の戦死・戦病死は10万人である。両者の戦力の差はこのくらいはある、と思っていたアメリカはこれには驚かなかった。ただ次の事実は、重慶にいるアメリカの高級軍人・外交官・新聞記者たちを唖然とさせるに充分だった。

戦いは44年4月に河南省ではじまった。5月、そこを守っていた5万人の国民党軍が、日本軍に攻撃される直前に、農民に武装解除され四散するという異常な出来事がおきたのだ。重税に怒っていた農民は、国民党政府を敵と思っていた。勇敢に戦った国民党軍もいたが、なかには将軍が家財を貨車に積み込みまっさきに逃げ出し、つつ”いて将校たちが逃げ出すという戦場もあった。

中国にいるアメリカの軍人・外交官・新聞記者は、口をそろえて国民党を非難した。蒋介石の反対など構うことではない。アメリカは毛沢東の共産軍に武器を与えるべきだ、と彼らは主張しはじめた。

蒋介石を支援するために重慶に派遣されていた米陸軍大将・ジョゼフ・スティルウィルは、この一号作戦がはじまる半年前に、「次に日本軍による大規模攻撃があれば、蒋介石の国民党軍は倒壊する」と、ルーズベルトに警告していた。その予言通りになってきたのだ。

このような背景のなかで、蒋介石はアメリカに対して少しばかり妥協した。今までアメリカ側から要請があったが断わり続けていた、アメリカ軍人と新聞記者の一隊が視察のため毛沢東の延安に行くのを許すことにした。ところが、延安地域を訪問したアメリカの記者たちが、共産党の指導者と兵士たちを褒めたたえたことから、蒋介石の国民党政府の権威はさらに下落することになった。


ルーズベルトは、日本との戦争が長引けば毛沢東はますます勢力を拡大すると考えた。日本が降伏したあとまもなく、中国では内戦が起こり、国民党政府は崩壊するかもしれない。そうなれば、デラノ家が経営するラッセル商会の中国利権などふっとんでしまう。いや、ルーズベルトは、そんな小さな個人的利益だけで判断したのではあるまい。アメリカ合衆国の利益に反すことになる、と強い危機感を抱いたのである。

このような状況のなかで、ルーズベルトは日本との戦争の終結を急いだ。その結果、ホーンベックの更迭、グルーの登場となったのである。

このルーズベルトの予感は的中するのだが、その結果を見ないで、彼は45年4月12日に急死した。そのあと、多くのアメリカ人が小物の政治家と軽視していたハリー・トルーマンが大統領に就任するのである。





2 件のコメント:

  1. この作戦については全く知りませんでしたので、勉強になりました。自分は単純に、「毛沢東は国民党に日本と戦わせて、日本が負けた後、国民党を撃破する戦略を完遂した」と考えていたのですが、実態はそんな簡単なものではなかったのですね。(国民党の腐敗が酷かったとはいえ、だからといって毛沢東を礼賛するアメリカもよくわかりません。)
    ちなみに、以前、大学の同窓会誌に学徒動員で戦争末期に兵隊として大陸北部に渡った方が寄稿していました。皇軍が行進する両側に共産党の兵士がいるのに、全く戦闘にはならないのが不思議だったと書かれていました。毛沢東の戦略は末端まで行き届いていたと言うことでしょうか。

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    1. 読んでくださり、ありがとうございます。晩年の毛沢東はいろいろと問題もありますが、当時は周恩来、朱徳、などを手下にして、相当理想主義的な良い政治をおこなっていたという感じがします。私も「一号作戦」については、鳥居民先生からお話を聞いたり、先生の著書を読むまでは、知りませんでした。引き続き、ブログを読んでいただければ嬉しいです。ありがとうございました。田頭

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