昭和天皇と鈴木貫太郎(19)
トルーマンとバーンズ一行を乗せた重巡洋艦オーガスタが、アントワープに到着したのは45年7月14日である。奇妙なことに、重要人物である陸軍長官スティムソンの姿はこの艦上になかった。
トルーマンとバーンズの二人が、当初、スティムソンをポツダム会談のメンバーからはずしていたからだ。天皇条項にこだわる彼の参加を嫌がったのだ。この条項を入れて日本がすぐに降伏したのでは、原爆投下が出来なくなる。
しかし、まもなく78歳になる政界の長老スティムソンは、この会談への参加を自分の最後の晴れ舞台と考えていた。このままでは男が立たない。彼はポツダムへ行くべく巻き返しをはかる。ちなみに、このスティムソンは鈴木貫太郎と同じ年齢である。
あるいは国務次官のグルーから、ポツダム行きを強く要請されたのかも知れない。この局面で、天皇条項の挿入を大統領に説けるのはスティムソン以外にいない、とグルーは考えたと思う。グルーを駐日大使に任命したのは、当時国務長官だったスティムソンだ。二人には深い信頼関係があった。13歳年長でハーバードの先輩でもあるスティムソンに、この時グルーは拝むような気持でいたのではあるまいか。
スティムソンはトルーマンに、なぜ自分がメンバーから外されたのかと問う。
「年齢ですよ。私は貴殿の過労を心配しているのです」とトルーマンは笑いながら答えた。
大統領がこのような言い訳をするだろうと、じつはスティムソンは予想していた。これに備えて、彼は合衆国軍医総監の健康証明書を手元に用意していた。これを出されたトルーマンは断るべき理由を失い、非公式での随行を認めざるを得なくなった。
この後のスティムソンの動きはじつに素早い。陸軍の高速輸送艦に乗り、重巡オーガスタより一日早くアントワープに到着している。次官補のマックロイを同行させた。
7月16日、日本の外務大臣からモスクワ駐在の佐藤大使に宛てた「天皇は速やかな戦争終結を望んでいる」との暗号電報を、ポツダムに着いたばかりの米首脳が入手したことは先に述べた。同じ日の午後7時過ぎ、「ニューメキシコでの原爆実験成功」の報がスティムソンのもとに届く。すぐさま大統領の宿舎を訪ね、トルーマンとバーンズにこれを伝えた。
この晩、同じ宿舎に泊まるスティムソンとマックロイは夜遅くまで語り合った。そして、「天皇条項を入れた通告をいますぐ日本に渡すなら、日本側にとってもぴったりのタイミングだ」と二人は考えを一致させた。翌日早朝、スティムソンはトルーマンとバーンズにこれを説いた。
「日本に今すぐこのような通告を出すことには反対だ」、二人はにべもなく断った。ルーズベルトが存命ならば、国務長官を一度、陸軍長官を二度つとめた政界の大物スティムソンは、この二人の田舎政治家など歯牙にもかけなかったはずだ。自分の主張をまったく聞こうとしない二人に、スティムソンは憤慨する。
スティムソンは共和党の議員で、共和党の大統領・セオドア・ルーズベルトに見いだされて立身出世した。彼が最初に陸軍長官になったのは第一次大戦前の1911年である。この頃トルーマンは父親と一緒にミズーリで農業をしていた。スティムソンから見たら、トルーマンもバーンズも、政治歴からしてもまったくの小僧っ子である。
ポツダム宣言の原案は、陸軍省と国務省の共同で作成された。具体的に言えば、弁護士出身の陸軍長官スティムソンと国務省のグルー、ドーマンの三人で草案を練った。そしてこれを清書したのは、大阪生まれで東京の暁星中学出身のドーマンである。
彼らは第12項に、「天皇の地位の保証」を入れた。だが、トルーマンとバーンズの二人がこれを削ろうとしていることに、グルーとスティムソンは強い危惧を抱いていた。
ヘンリー・スティムソン |