2021年4月19日月曜日

ポツダム宣言の黙殺(2)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(22)

「黙殺」についてのいきさつは、次のようであったらしい。

7月28日の朝日新聞に「政府は黙殺」との見出しをつけて記事を書いたのは、柴田敏夫記者である。この柴田記者が戦後、当時首相秘書官であった鈴木貫太郎の長男の鈴木一(はじめ)氏と対談した。この時、鈴木一氏は次のように語っている。

「当時、書記官長の迫水さんは、毎日三回、新聞記者クラブで会見をされていた。正午の会見の時、いったい政府はどうするのかという話が記者団から出た。迫水さんとしては、今、日本としてはこれを受諾するとかそういう態度はとれないんだ。だから結局まあ重要視しないというか、ニグレクト(neglect/無視・軽視)するという方向にいくことになりだろうと。じゃあ黙殺かという話が出たんですね。”黙殺?ニグレクトというのは黙殺とも言えるかなあ” というようなやりとりがあったと記憶しています。そして迫水さんからは、”大きく新聞のトップでポツダム宣言黙殺とは扱わんでくれ。なるべく小さく扱ってくれよ”と記者たちに話があった」

毎日新聞の名取記者は、戦後次のように証言している。「総理ははっきりしたことは何も言われなかった。近頃の言葉でいうとノー・コメントといったところなのですが、印刷するとああなりますかね」

この「気にもとめない」、「ノーコメント」くらいの意味での「黙殺」という言葉を、AP通信もロイター通信も、「reject/拒否」した、とアメリカ国民に伝えた。APやロイターに比べると、ワシントンポストの次の報道は、日本政府の気持ちをかなり正確に伝えているような気がする。

Japanese Premier Suzuki scorned today as unworthy of official notice allied Potsdam surrender ultimatum.

日本の首相・鈴木は、本日、連合国のポツダム降伏勧告最後通牒は、公式見解表明に値せずとして笑殺した。(小堀桂一郎訳)

私は、最後の「ultimatum/最後通牒」という言葉に違和感をおぼえる。ポツダム宣言の文中には「最後通牒」の文字は見えないからである。

日本側が、「これは公式見解表明に値せず」と言ったことを、ワシントンポストで知ったトルーマンとバーンズは一瞬ヒヤリとしたのではあるまいか。彼ら自身が「公式見解とは見られないように」幾重にも小細工を施していた からである。日本側はこの宣言の背後にある真実をつかんでいるのか。二人は内心ギクリとしたかも知れない。

日本政府は、「対本邦共同宣言にあげられた条件中には、天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざるとの了解のもとに、帝国政府は右宣言を受諾す」との内容を英文にして、米国と中華民国にはスイス政府、英国とソ連にはスウェーデン政府を経由して、日本時間8月14日に改めて発信した。

日本人は律義である。宣伝文のような形で発信されたこの文書に対し、正式に中立国を経由して返答している。ポツダム会談に参加していたが宣言に名を連ねていないソ連に対してまでも返答している。

バーンズ三原則の通り、アメリカ政府の原爆投下に関する公式な姿勢は、「日本に対して原爆投下の事前通告をしない」ということであった。

ところが事実として、アメリカは複数の方法で、この原爆投下について日本国民に警告を発していた。


シドニー放送・ニューデリー放送は原爆投下の3-4日前から、英語と日本語の短波放送でこれをくりかえし放送した。このブログの「広島医専・20年8月5日の開校式」で触れたとおり、広島医専初代校長・林道倫博士がこれを聞いていたのは間違いない。

同時に、原爆投下の前日8月5日に、一機で広島上空を偵察したB29は、原爆投下警告のビラを広島市に投下している(写真参照)。「日本国民に告ぐ・即時都市より退避せよ」と見出しにあり、「広島」の名も、「B29・2000機分が搭載する爆弾に匹敵する」、「原子爆弾」の文字もはっきりと見える。

このガリ版刷りのビラは、テニアン島かサイパン島で捕虜になった日本人が、アメリカ軍の情報将校の指示のもとに、急いで印刷したものに違いない。それでは、これらの放送や警告ビラの投下は、アメリカ本国のどこからの指示であったのだろうか?

国務次官のグルーと特別補佐官のドーマンであった可能性が高い。そうであれば、二人の行為は、国務長官バーンズの指示に逆らっての命令違反である。

B29は陸軍の軍用機だ。陸軍次官補・マックロイもこれに加わったのではあるまいか。海軍次官のバードも、これをサポートしたのかも知れない。グルーとドーマンの国務省の二人だけでは、これだけ大がかりな作業は不可能と思うからだ。日本が敗北を認めたその日、45年8月15日に、グルーは辞表を提出した。彼は命令違反行為の責任を取ったのではあるまいか。

アメリカの心ある人たちの、このような配慮・行動は事実として存在した。このことは我々日本人は認識しておくべきだと思う。ただ、残念なことに、海外からの短波放送を聞くことは当時の一般国民は固く禁じられていた。米軍の飛行機が撒く宣伝ビラは、すぐに憲兵隊か警察に届けるようにとの国民への指示は徹底されていた。広島医専の方々のように、8月5日に広島から避難できた人はきわめて限られている。


これ以降、8月15日までの6日間、息つ”まるようないくつもの物語があるのだが、これらは数多くの書物に書かれているので、ここでは触れない。

















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