昭和天皇と鈴木貫太郎(23・完)
「歴史に if はない」という。その通りだと思う。後日になって、「もしもあの時」などと言っても考えても、現実はなにも変わらない。そうではあるのだが、凡人はつい夢想してしまう。「ルーズベルトの生命があと半年あったなら、広島・長崎への原爆投下はなかったのではあるまいか。7月下旬に戦争が終わっていたのではあるまいか」という夢想である。
二個の原爆が投下され、ソ連の参戦があったにもかかわらず、8月上旬、陸軍や海軍があれだけ抵抗したのだから、それは難しかった。以前、私はそう考えていた。
しかし、今回、当時のことを深く調べてみて、昭和天皇・鈴木貫太郎・米内光政・梅津美治郎の決意があれほど固かったのだから、それは可能だったのではあるまいかと思うようになった。陸軍大臣の阿南惟幾があそこまで頑張った理由はただ一つ、「国体の護持」すなわち「天皇の地位の保証」であった。
ルーズベルト大統領の下で、グルーが国務省を仕切り、「天皇の地位を保証したポツダム宣言」を発していたら、高い確率で7月中の終戦が可能だったのではあるまいか。もちろん、陸軍の一部が小さなクーデターを起こした可能性はある。それでも、先述した指導者たちが団結して動けば、少数の死者でそれは弾圧されたような気がする。
もしそうであれば、広島・長崎への原爆投下はなかった。7月下旬から8月上旬にかけて行われた、日本の地方都市への焼夷弾の投下もなかった。満洲での悲惨な出来事もなかった。北方四島にソ連が居座ることもなかった。そうであれば良かったのに、と思う。
しかし、と凡人はまた考える。それ以降の歴史で、原子爆弾というものが一切使われないで、現在までの70余年の世界史が続いていたであろうかと。あるいは朝鮮戦争やベトナム戦争で、「本当の原爆実験」が行われていたかも知れない。そう考えればきりがない。たしかに、「歴史に if はない」のかも知れない。
戦後生まれの日本人の一人として、私は鈴木貫太郎に心から感謝したい。
小堀桂一郎著、「宰相・鈴木貫太郎」の最後にある次の逸話には胸をうたれる。
この冒険的大事業を成功させたあとの、鈴木貫太郎のこうむった処遇は、救国の英雄にはふさわしからぬ奇妙なものであった。8月15日の朝、暴徒に自宅を焼かれた鈴木氏は、無一物の身柄一つをかかえて、親戚知人宅を転々と避難して歩いた。一軒の宅に落ち着けなかったのは、生命をねらう暴徒が徘徊していたので、一箇所への長逗留を避けるよう警察から要請されていたからである。
鈴木氏はそのような時、意地を張らない人であった。笑いながら素直に警察の要請に従って、転々と居を移した。三箇月のあいだに七度転居したという。終戦の大業を成し遂げたこの自分を、世間は何と思ってこのように扱うのか、といった怒りは毛ほども示さなかった。
鈴木内閣で厚生大臣を務めた岡田忠彦氏は、鈴木貫太郎の一周忌における談話で次のように語っている。終戦直後、彼が鈴木貫太郎の隠れ家を訪ねた時の話である。
「小さな家でありますので庭から入っていきました。狭い部屋に布団があって、そこで握り飯みたいなものを食べておられました。奥様も傍らにおられました。大変なことですな、と言ったら、その時に鈴木さんは、これくらいな事はありがちなことですなと言われた。私にはその一言がとても心に響きました」
八千万人の日本人を乗せ、いつ沈没するかわからない日本丸という大きなボロ船を、たくみに操縦しながら、日露戦争時の水雷艇司令・鈴木貫太郎は、なんとか岸まで持ってきた。港の岸壁にスマートに横付けしたのではない。いってみれば、浜辺に座礁させたようなものだ。それでも八千万人の日本人は生き残ることができた。これを見届けて、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。昭和20年8月15日の夜のことである。
ほぼ同じ時刻、アメリカ東部時間8月15日の午前、ワシントンでは国務次官ジョゼフ・グルーがトルーマン大統領に辞表を提出した。
84歳で没したのが65年だから、グルーは戦後20年間を生きた。日本人の留学生をサポートするグルー基金を設立したり、日本に対する友情はまったく変わらなかった。49年に渡米した高木八尺東大教授は、グルーの自宅で親切にもてなされた。53年、皇太子時代の平成天皇は、エリザベス女王の戴冠式に出席するためアメリカ経由で渡英した。この時グルーは夕食会を主催し、皇太子の成長ぶりと皇室のご安泰をわがことのように喜んだ。
60年、日本政府はジョゼフ・グルーに勲一等旭日大綬章を、ユージン・ドーマンに勲二等旭日重光章を贈った。日米修好百年を記念して渡米した皇太子夫妻がこれを持参した。原爆投下を阻止できなかったことをひどく心苦しく思っていた二人は、この叙勲をとても喜んだといわれている。
しかしながら、日本の友人たちが再三来日を促しても、グルーはとうとう日本の土を踏むことはなかった。
「征服者の顔をして日本に行きたくない」というのが本人の弁であったという。この人もまた、中世の騎士の精神を持っていた人のように思える。
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