2021年9月13日月曜日

漱石の幼なじみ・篠本二郎

 漱石の幼なじみの篠本(ささもと)二郎という人が、漱石が亡くなったあと、すぐに書いた「腕白時代の夏目君」と「五高時代の夏目君」という思い出話をご披露したい。

その前に篠本二郎の人となりと、彼の「書き物」が我々の目に触れるにいたった数奇な物語りを紹介したい。

矢島道子・浜崎健児両氏の「傍系の地質学者・篠本二郎」を参考にすると、篠本二郎氏とは、次のような人物である。


文久3年(1863)ー昭和8年(1933)70歳で没。漱石より20年長寿を保った。

「夏目君とは小学校で同じ長椅子に腰を掛けていた」と本人の文章にあるが、慶応3年(1867)2月9日生まれの漱石より3歳年上になる。明治6年ごろ一緒に小学校に入学した、との記述もあり、当時は小学校が設立されたばかりで、この程度の年齢差は珍しいことではなかった。

この人が東京大学理学部化学科に入学したのは明治16年というから、漱石が東京大学文学部英文科に入学した明治23年よりも7年も前である。

漱石は漢学塾二松学舎・英語塾成立学舎・大学予備門・第一高等中学校経由で東大に入学した。一高時代は虫垂炎で一年遅れている。篠本氏は東京英語学校、大学予備門に学んで、漱石より7年も早く東大に入っている。教育制度の変転と3歳年長がその理由らしい。

「自分が熊本の五高で教鞭をとっていたら、小学校で別れて以来の夏目君が英語の教授としてきたのでびっくりした」とあり、同じ時代に二人とも東京大学で学んだはずなのに、と思っていた私には、当初は合点がいかなかった。

私は東京大学には縁がないので、本で調べた限りでは、当時は文科大学・法科大学・理科大学・医科大学など、それぞれがカレッジとして独立していて、場所も分かれていたらしい。なおかつ入学が7年も違えば、互いが大学時代に顔を合わせなかったのは理解できる。

篠本二郎は、化学を専攻したが、一年生の時実験中に負傷して一度退学した。翌17年、理学部地質学科の聴講生として再度東京大学に学んだ。ただ正規の卒業生ではなく卒業生名簿には載っていない。すなわち、理学士にはなっていない。このことが学位を重んじた明治・大正時代に教職についた篠本とって、不遇の原因となる。

教職に就き、富山・徳島・岩手・徳島・大分・長崎の学校を転々としたとある。中学校とか専門学校あたりで教鞭を執っていたらしい。明治27年に熊本の第五高等学校に赴任する。これは本人にとっては栄転と考えられるが、肩書は英語・地質・鉱物の講師であった。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が急に辞任したので、英語が出来る篠本に白羽の矢が立ったらしい。

明治29年に熊本の五高に赴任した夏目漱石はいきなり教授であった。当時、教授の給料は講師の五倍もあったそうだ。明治30年に、篠本もあっぱれ教授に就任している。

五高当時の漱石・篠本二人の共通の教え子が寺田寅彦である。漱石門下には多士済々の一流の文学者がきら星のごとくいるが、最も古い時代からの弟子が寺田寅彦らしい。

篠本二郎は五高のあと鹿児島の第七高等学校(造士館)の教授に転じている。教え子の思い出話には、「先生は朝顔を洗わず、便所に行っても手を洗わなかった」など奇行の人との証言もあるが、孔子の言葉を借りると、「巧言令色」ではなく、「剛毅朴訥仁に近し」の人だったようだ。写真の風貌からしても、そのような人柄が感じられる。

漱石ほど多くの有名人を弟子に持たなかった篠本二郎にとって、寺田寅彦は数少ない自慢の弟子であった。自分と同じ理学で立身出世した寺田に、篠本は大きな愛情と誇りを抱いていた。

この原稿を、篠本が寺田寅彦に送ったのは、二人の関係からしてごく自然である。


篠本二郎










0 件のコメント:

コメントを投稿