2021年9月21日火曜日

篠本二郎の原稿・20年の孤独(1)

 漱石が亡くなったのは大正5年12月9日である。篠本氏の書いた「腕白時代の夏目君」と「五高時代の夏目君」の原稿が、郵送で寺田寅彦の手元に届いたのは大正6年2月だから、漱石が亡くなって三月(みつき)ほど後のことだ。

寺田寅彦は明治36年に首席で東大理学部を卒業した。まもなく博士号取得、助教授、ベルリン大学留学、大正5年に東京大学理学部教授に就任している。よって、篠本からこの手紙を受け取ったのは教授就任後まもなくである。

篠本から寺田への私信の目的の第一は、「寺田君、東大教授就任おめでとう」であったかと思う。そのあとで、「二人の熊本時代からの共通の知人、夏目君が亡くなって三月(みつき)になるね。心に穴が開いたようだ。夏目君との少年時代の思い出をつつ”りながら、一人で自分を慰めている。君にだけはこれを読んでもらいたい」このような内容の手紙であったかと想像する。

これを感激して読んだ寺田は、大切に自分の書卓の引き出しの奥に仕舞い込んだ。その後、寺田は胃潰瘍を患い長く学校を休んだ。快復のあと、東大教授の肩書のまま、理化学研究所・東大地震研究所など東大キャンパスではない、別の場所で勤務した。その後大正12年の大震災に遭遇したりで、本人はこの手紙と原稿をどこかで紛失したと悔やんでいた。


ところが、寺田寅彦が亡くなる二月(ふたつき)ほど前に、ある人から、この手紙と原稿が寺田の自宅に郵送されてきた。「失くした子供が生き返ったようだ」と寺田は喜んだという。返却されたのには、それなりの理由があった。

死期を悟ったのであろうか。寺田は「思想」という雑誌の昭和10年11月号に、「埋もれた漱石伝記資料」と言う題で、この資料を紛失したことの後悔の気持ちを書いた。

便利な世の中になったものだ。スマホにこの題名を入力すると、読者はこの全文を読むことができる。寺田寅彦が亡くなったのはそれから二月(ふたつき)後の12月31日である。


寺田寅彦







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