2021年10月11日月曜日

腕白時代の夏目君(1)

 余と夏目君と相識(あいし)りしは、明治6年頃と記憶する。牛込薬王寺前町に一の小学校が設立された。その近傍の子供は、士となく商となく一様に入学を許された。大抵年齢によりて、上は一級より下は六級まで分たれて、六級より三級までは、男女混合であった。

余と夏目君とは三級で、しかも同じ腰掛に座を占めていた。当時の小学校は、校舎その他の設備不完全なりしのみならず、先生も六、七十位の漢学者も交じり、又洋算など教えらるる先生には二十歳前後の人もありて、極めて乱雑なるものであった。

或時、六十ばかりの先生が、福沢塾出版の世界地図を掲げ、アフリカ北部の国々の名を覚束なく指示された。翌日また同じ地理の時間に、同じ先生が続きを教えられることになった。驚くべし。先生は南アメリカの地図を指して、昨日と同じく平然としてアフリカとして教えられた。現今ならば生徒は忽ち挙手して先生の誤解を正す所なれど、この時分は先生の権威隆々として、そんなことをすれば直ちに体罰を課せられる恐れがあった。

この時代の小学生は実に乱暴なものであった。先生・父兄には処女の如くありしも、交友間、もしくは他人に対しては、今想像も出来ぬ程あばれたものだ。殊に廃刀令前後のことであったから、小学生の中でも士族の子供が平民の子供を抑圧することも、またはなはだしかった。夏目君の如きも、のち余と共に、はからずも同じ熊本五高に教鞭を執り、中年以後顔を合わせることになったが、この中年時代の憂鬱(ゆううつ)・寡黙に似ず、小学時代にはすこぶる活発にして、よく語りよくあばれ、余の当時のあだなであった「悪太郎」にも勝って、しばしば先生より叱られたものだ。








0 件のコメント:

コメントを投稿