この小学校の机及び腰掛は三人一組で、余と夏目君はその腰掛の両端に座を占め、中央には牛込加賀町より通学せる、色白く極めて愛らしい女の子が座を占めていた。この子は、余等の算術を受け持たれたる二十歳ばかりの先生の妹で、鈴木のお松さんという子供であった。このお松さんは容色秀麗なるのみならず、身体健康にしてかつ活発で、各種の課業も余や夏目君の及ぶ所ではなかった。
殊に夏目君と余は、算術が下手で、幾度となく鈴木先生に諭された。算術の課業は今の如く先生が黒板にて練習せしめた後、類似の問題を出して生徒にやらす。出来たものは挙手するを例としたが、余と夏目君はほとんど出来たためしがなかった。
お松さんはいつも一番に挙手して問いに応じて誤ることがなかった。余と夏目君は語り合わざるも、時には景気付けに挙手したものの、人に遅れて挙手せしにかかわらず、そんな時には運悪く解答を質問されて、赤恥をかきしこと一度ならずあった。
かくして日を送る内、お松さんは余等を蔑視するがごとく、時には余等の失策をほかの子供と一様に高笑することがあった。かくすれば余等子供心に、嫉妬心と憎悪の念を生ぜざるを得ない。殊にこの時代は、婦女をさげすみて、学校にて男女席を同うして教えを受くるさえ不快を感じていたから、あるとき学校で、夏目君が言い出したのか余から始めたのか覚えぬが、ひとつお松さんを虐めてやろうと相談した。
しかし先生の妹であるから、ぶったり、つねったりすれば、先生より大変な返報を受くる。課外にお松さんが席にまだ居残れる時、お松さんの両端より腰掛ながら、余等が一度にお松さんを肩にて押しつぶして圧して苦しめてやろう、そうすれば何も証拠は残るまい、と二人は一致した。その後この愧(は)ずべきことを実行した。
お松さんは顔を赤くして大声で泣きだした。余と夏目君は今更驚き狼狽して、共に学校道具もそのままに、門外に逃げたが、たちまち捕われた。その日より十日間、毎日課外に一時間ずつ、双手(もろて)に水を盛りたる茶碗を持たされて、直立せしめられたるのみならず、その後は席を替えられて、同室中で一番薄暗き片隅に移された。
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