2021年10月4日月曜日

小宮豊隆の当惑

 この原稿を読んだ小宮豊隆の当惑ぶりを想像すると可笑しい。勉強はできない。とんでもない乱暴者。と書かれてある。

「あの漱石先生の少年時代がこんなはずがない。いや、あってはならない。これは作り話に違いない」これが小宮の本心であったと思う。

しかし、六歳年長で漱石門下の最先任・寺田寅彦さんのいいつけである。しかも寺田さんは病床に伏して容態は悪いらしい。無視するわけにはいかない。小宮はこの二つの文章を、昭和10年12月号の「漱石全集・月報2号」に載せた。死のひと月ほど前、寺田寅彦は病床でこれを読んだ。寺田自身はこの篠本の話を信じていたように思える。

かたや、「漱石神社の神主」の小宮が、これを快く思ってなかったことは、ありありとわかる。月報でこれを紹介する前に、次のように記している。

「失礼を省みず、正直な所を白状すると、篠本さんのこの話は、私には、少し面白く出来すぎている感がある。盲に悪戯をする所だの、鍛冶屋の息子と喧嘩をする所だの、特にこの感が深い。しかし篠本さんはもう亡くなっているのだから、それを質す訳にもいかない。また仮に質した所で、すでに篠本さんの頭の中にこうした形で記憶されている以上、どうしょうもない。従って私達は篠本さんという人の人となりを想像しつつ、この思い出を、このまま受けとって置くより外、しかたがないようである」


しかし、普通に考えてみれば、大正五年末に漱石が亡くなったあと、篠本二郎が共通の教え子の寺田寅彦に少年時代の漱石のことを、面白おかしく作り話をする必要性はまったくないように思える。同時に篠本自身、自分の書き物が後世の人々に読まれることは、まったく想定していなかったと思う。

伝わるところの篠本氏の人柄と、彼の写真の風貌からして、田頭はこの「腕白時代の夏目君」の内容は、ほぼ100パーセント真実であると思っている。

篠本氏の原稿は案外分量が多い。ここで紹介するのはその一部である。

次回から「漱石の六歳頃の写真」を掲載しようと思う。明治9年の廃刀令の4年ほど前のものであり、古い写真を何度もコピーしたものであろう。とても写りが悪い。端午の節句の時のものであろうか。頭にハチマキをきりりと締めて、左手に大刀を握っている。「お前はサムライの子だ」と親がこのかっこうで写させたに違いない。微笑ましい写真である。

小宮豊隆






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