2021年11月29日月曜日

漱石はじつは、犬が好きだった

 私は以前から、夏目漱石という人は、猫より犬が好きな人ではあるまいか、と密かに思っていた。「草枕」や「三四郎」もそうだが、特に「坊ちゃん」は、猫好きの人が書いた文章とは思えない。なぜそう思うのかと聞かれても返答に困る。第六感である。

ただ、自信もないし、人に言うほどのことでもない。ずっと心の内に秘めていた。ところが、ほんの数日前、古本屋で買ったある人の本を読んでいて、漱石自身がその筆者に語ったという。「私は、実は、猫は好きじゃないんです。犬のほうがずっと好きです」と。

「我が意を得たり」とは、まさにこの事である。陶淵明や蘇軾なら「心欽然として」と詩に書くに違いない。私はここ数日、なんだか愉快でたまらない。漱石の項を終えるにあたり、この話をご紹介したい。

ある人とは野村胡堂である。明治15年生まれというから、小宮豊隆や安倍能成と同じころ一高、東大に学んだ人だ。「銭形平次捕物控」の作者でもある。そうかといって学生時代に漱石の門下だったわけではない。法科に学び、父親の死で学資が続かず潔く退学して「報知新聞」に30余年勤務した。漱石の家を訪問したのは、若い新聞記者の時代らしい。


以下は、野村胡堂の「胡堂百話」からの抜粋である。

私が、はじめて夏目漱石氏の書斎を訪ねた時、漱石邸には猫はいなかった。「あの猫から三代目のが、つい、この間までおりましたっけ」という話。惜しいことをした。もうひと月も早かったら「吾輩は猫」の孫に逢うことが出来たのだったのに。

「どうも、すっかり有名になっちまいましてね。猫の名つ”け親になってくれとか、ついこの間は、猫の骸骨を送って来た人がありました。どういうつもりか知りませんがね」さすがに、薄気味悪い顔だった。「で、四代目は、飼わないのですか」

「それなのです。私は、実は、好きじゃないのです。世間では、よっぽど猫好きのように思っているが、犬のほうが、ずっと、好きです」猫好きなのは、夫人の方だという。漱石研究の本にも、いろいろと書かれているようだが、私は、はっきりと、この耳で聞いた。好きでないから、冷静に観察できたのかも知れない。

私は、ひょっとしたはずみで、猫の孫にも逢わず、漱石門下にも加わらなかったが、漱石のあの風格は、忘れ難いものがある。江戸っ子らしい機才と、西欧流のユーモアと、それに深い学殖とが、三位一体となっていて、ちょっと形容の出来ない複雑な風格である。「漱石」とは記さず、「夏目金之助」とだけ書いたあの黒ずんだ標札と共に・・・・。













2021年11月18日木曜日

五高時代の夏目君

 夏目君と別後二十余年を経て、余が熊本の五高に教鞭を執りつつありし或る日、夏目君が突然訪ねてきて余を驚かした。一見幼児の面差しの変わらずを見て、実に嬉しく感じた。何の為に君は此所に来たのかと先ず尋ねた。夏目君は君の学校に転任したからこれから宜しく頼むと挨拶された。余はなおさら驚きかつ喜びて、頼むも頼まるるもあったものではない、こんな喜ばしきことはまたとあるまいと答えた。

余は久しく君の名を忘れて居たが、近年松山の中学に就職されたと伝え聞いて、私は喜んでいたのである。時に松山の生徒の風は如何な塩梅かと尋ねた。

君は曰く、てんで話にならない。教師が生徒に対して其の罪をただし、或いは諭す場合にも、生徒は何時も私の損であるから犯しました、若しくは私の得であるから致しましたと答するを通例とする。毫(ごう)も事理を弁じないから、ほとんど論戒の甲斐がない。全然利己の外に一片の節操だも抱かざる有様であった。僅かの間就職していたが、生来こんな不快なる間に衣食したことがない、と長大息された。彼の「坊ちゃん」の小説も、これらの不平の間に胚胎(はいたい)したものと思わるる。


或る日、夏目君と昔話中に、余より彼の鈴木のお松さんのことを話し出して、君は覚えているかと問うた。夏目君は、忘れるどころではない、君も僕も彼女を苛めて辛い目にあわせたから、あの時の事は終生忘れまいと言った。

又、お松さんは実に可愛い女子であったが、行末は如何になったか、君は知らないかと言われた。余は、君もまた当時可愛らしいと思ったか、僕も当時その通りであった。男女七歳にして席を同うせずと云うのはこんな場合から発明したのだろうと、互いに大笑いした。

お松さんは依然加賀町に住居して、某と云う人を婿養子としたが、不幸破縁となり、今は貧困に世を送っていると云うことだけを、かねてより伝聞して居ると語った。

然るに夏目君は、にわかに真面目になり、それは実に気の毒だ、君と僕と協力して、出来得る限り不幸の旧友を救おうではないか、僕もまた上京の時は、かならず彼女を訪ねて不幸を慰めてやりう、と余に語った。

余も夏目君の昔日の如く、友情の篤きと侠気の旺盛なるに感じて、共に此の事を実行しようと固く契った。その後、余が上京してお松さんの消息を探りしが、最近病死されたと聞き、夏目君と共に力を落とした。





2021年11月15日月曜日

腕白時代の夏目君(6)

 余等は、当時の子供のあらゆる悪戯(いたずら)を仕尽くしたる中に、極めて面白く思い、今もその時の光景を思い出しては、私(ひそ)かに微笑を浮かべることがある。

毎日午後の四時頃に、余が邸の板塀の外を22・3歳位の按摩(あんま)が、杖をつき笛を吹きて通過した。此奴(こやつ)盲人に似ず活発で、よく余等を悪罵(あくば)し、時には杖を打ち振りて、喜んで余等を追い廻わした。余等も折々土塊(つちくれ)などを投げつけて、彼を怒らせた。ある時学校で、夏目君と一つ按摩を嬲(なぶ)ってやろうと色々に協議した。ただしいつも矢鱈(やたら)に杖を振り廻すから、容易にその側に寄るわけにはいかぬ。

そこである時二人して、恰も按摩が塀の外を通過する頃、塀に登りてこれを待った。一人は長き釣竿の糸の先に付ける鉤(かぎ)に紙屑をかけ、一人は肥柄杓(こえびしゃく)に小便を盛りて塀の上に持ち上げて、按摩の通過を待つほどに、時刻を違えずやって来た。

一人は手早く紙屑に小便を浸して、釣り竿伸ばして魚を釣るが如き姿勢を取りて、小便の滴る紙屑を、按摩の額上3,4寸の所に降して.1・2摘小便を額上に落した。この後の按摩の挙動を思い起こす時は、今も笑いを抑ゆることができない。

笛を持てる左手にて、晴天に怪しの水滴の降りたるに驚きて、にわかに立ち留りて、てのひらに水滴を撫でて、すぐにその手を嗅(かい)でみる所作をなす。嗅いでその臭きを知るや、たちまち憤怒の形相となり、阿修羅王の荒れたるが如く、その近傍に人ありと察してか、左右前後に杖を風車の如く振り廻して、暗中人を探るがごとき状をなせども、人の気配なき為に、再び立ち留りて試案の体(てい)をなす。

この時更に又、額上に2・3滴を落せば、いよいよ荒れて杖を振り廻わす。最後に十分小便を浸したる紙屑を鼻頭に吊り下げて、小便を塗り付け、共に静かに塀を下りて逃げたことがある。この悪戯は子供心にもそぞろ罪深く感じて、申し合わさずも再びしなかった。


この頃、牛込の原町に芸名・玉川鮎之助という、日本流の手品師の芸人がいた。余はあるとき夏目君にこんなことを言った。君の名の夏目金之助というのは、なんだか芸人の様で少しも強かりそうでない。玉川鮎之助と余り異ならない。もっとえらそうな名に変じたらどうだと。夏目君は、僕も密かに気にしているが、親の付けた名前だから、今更変えることは出来まいとあきらめていると。

当時夏目君は武張(ぶば)ったことが好きで、後日文学を専門として、人情の微をうがつような優しい小説など書く人になろうとは思い寄らなかった。






2021年11月8日月曜日

腕白時代の夏目君(5)

 悪太郎の大将が余等に接近するや否や、余等は短刀を抜き放ちて彼の前後より迫った。彼はたちまち顔面蒼白となり、すきあれば虎口より脱せんとし、又近き小路(こうじ)の門内に入りて人の助けを乞わんとする態度にて、ぐずぐず言い訳を唱えながら、二人に囲まれつつ次第に小路に中に退却した。

彼が小路に入るや、夏目君は手早く短刀を鞘に収めて、悪太郎に飛びつきて、双手にて胸元を押さえて、杉垣根に圧しつけた。悪太郎は年齢が余等より四つ五つも違い、腕力も余等二人協力しても及ぶ所ではなかったが、時代思潮上士族を恐れたのと、余が白刃を持てるによりて、夏目君の引廻わすままに毫(ごう)も抵抗しなかったのは、当時極めて愉快であった。夏目君はいよいよ彼を杉垣根に圧し付けて、彼の身体が側面より認められぬようにし、余はこの動作中短刀を彼の胸元へつきつけて、夏目君と共に彼を殺してしまうと威嚇していた。

その内通行人が彼の家人に密告したものと見えて、不意に二十歳ばかりの彼の家に養わるる鍛冶屋の弟子が来りて、太き棒切れにて夏目君の向う脛(すね)を横に払った。余も夏目君も不意の襲撃に驚きて、夏目君が倒れて手を放すと同時に、当の敵は逃げ出した。

余もまた一歩二歩後退するとたんに、夏目君は腰に差したる短刀を抜き放ちて、倒れながら弟子をめがけて短刀を投げつけた。短刀は運よく彼の脛(すね)に触れて軽からざる傷を負わした。悪太郎も弟子もこの勢いに恐れて、主従共に雲を霞(かすみ)に逃げ亡(う)せた。夏目君は打たれる脛の痛みに、一時歩行が出来なかったが、辛うじて余が家に帰りて、水をかけたり白竜膏(はくりゅうこう)を塗ったりして、日暮れに跛行(はこう)して帰り去った。

この事ありし以来、余等が柳町辺を闊歩するも、毫も町家の子供に苛めらるることがないばかりか、たまたま四、五の悪太郎の集団が会するも、彼等はなるべく見ぬふりをして、余等の視線を避くる様子であった。

夏目君はこの時代、性質活発なると共に、癇癪(かんしゃく)も著しかった。余としばしば喧嘩をしたのもこのためであった。しかるに中年以降の沈黙・憂鬱(ゆうつ)の傾向ありしは、文学思想に耽(ふけ)りし為めか、或いは修行の結果であろうと思わるる。





2021年11月1日月曜日

腕白時代の夏目君(4)

 夏目君が、牛込薬王寺前町の小学校より、学校帰り余の家に立ち寄るには、麴坂を登りて来るを常とした。又帰宅のときは焼餅坂(やきもちざか)を下りて帰った。しかるに麹坂の麹屋に一人の悪太郎が居り、焼餅坂の桝本(ますもと)という酒屋にもまた悪太郎が居って、なおこれらの悪太郎を率ゆるに、鍛冶屋の息子で余等より四つ五つ年上なる大将がいた。

夏目君はいつも彼等のため種々な方法で虐めらるるから、いつか余と協力してこの町家の大将を懲らしてやろうではないか、と相談を持ちかけた。この時代はまだ士族の勢力が盛んで、町人の子供は一般に士族の子供に対して怖れを抱いていた。夏目君が学校帰り素手で四、五人の町人の子供に虐めらるるのであるから、その総大将を一人懲らせば後日の憂いなかるべしとの考えで、その機会が来るのを待っていた。

ある時、夏目君と余が、余の邸の裏門で遊び居れる時、かの鍛冶屋の悪太郎が独り、余等の遊べる方向に歩行し来れるを遥(はる)かに認めた。

余等は好機逸すべからずと、余は家内にかけ込みて何の分別もなく短刀二振りを持ち来りて、その一を夏目君に与えし時は、すでに悪太郎は十四、五間の距離まで近つ”いていた。当時は武士の切り捨て御免とかいう無上の権威が、なお町人やその子供の頭に残れる時分であった。武士の子供が短刀一本さえ携え居れば、年長の町家の子供四、五人を相手に喧嘩して、ついに逐い散らして勝利を収むることが出来たのである。