悪太郎の大将が余等に接近するや否や、余等は短刀を抜き放ちて彼の前後より迫った。彼はたちまち顔面蒼白となり、すきあれば虎口より脱せんとし、又近き小路(こうじ)の門内に入りて人の助けを乞わんとする態度にて、ぐずぐず言い訳を唱えながら、二人に囲まれつつ次第に小路に中に退却した。
彼が小路に入るや、夏目君は手早く短刀を鞘に収めて、悪太郎に飛びつきて、双手にて胸元を押さえて、杉垣根に圧しつけた。悪太郎は年齢が余等より四つ五つも違い、腕力も余等二人協力しても及ぶ所ではなかったが、時代思潮上士族を恐れたのと、余が白刃を持てるによりて、夏目君の引廻わすままに毫(ごう)も抵抗しなかったのは、当時極めて愉快であった。夏目君はいよいよ彼を杉垣根に圧し付けて、彼の身体が側面より認められぬようにし、余はこの動作中短刀を彼の胸元へつきつけて、夏目君と共に彼を殺してしまうと威嚇していた。
その内通行人が彼の家人に密告したものと見えて、不意に二十歳ばかりの彼の家に養わるる鍛冶屋の弟子が来りて、太き棒切れにて夏目君の向う脛(すね)を横に払った。余も夏目君も不意の襲撃に驚きて、夏目君が倒れて手を放すと同時に、当の敵は逃げ出した。
余もまた一歩二歩後退するとたんに、夏目君は腰に差したる短刀を抜き放ちて、倒れながら弟子をめがけて短刀を投げつけた。短刀は運よく彼の脛(すね)に触れて軽からざる傷を負わした。悪太郎も弟子もこの勢いに恐れて、主従共に雲を霞(かすみ)に逃げ亡(う)せた。夏目君は打たれる脛の痛みに、一時歩行が出来なかったが、辛うじて余が家に帰りて、水をかけたり白竜膏(はくりゅうこう)を塗ったりして、日暮れに跛行(はこう)して帰り去った。
この事ありし以来、余等が柳町辺を闊歩するも、毫も町家の子供に苛めらるることがないばかりか、たまたま四、五の悪太郎の集団が会するも、彼等はなるべく見ぬふりをして、余等の視線を避くる様子であった。
夏目君はこの時代、性質活発なると共に、癇癪(かんしゃく)も著しかった。余としばしば喧嘩をしたのもこのためであった。しかるに中年以降の沈黙・憂鬱(ゆうつ)の傾向ありしは、文学思想に耽(ふけ)りし為めか、或いは修行の結果であろうと思わるる。
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