夏目君と別後二十余年を経て、余が熊本の五高に教鞭を執りつつありし或る日、夏目君が突然訪ねてきて余を驚かした。一見幼児の面差しの変わらずを見て、実に嬉しく感じた。何の為に君は此所に来たのかと先ず尋ねた。夏目君は君の学校に転任したからこれから宜しく頼むと挨拶された。余はなおさら驚きかつ喜びて、頼むも頼まるるもあったものではない、こんな喜ばしきことはまたとあるまいと答えた。
余は久しく君の名を忘れて居たが、近年松山の中学に就職されたと伝え聞いて、私は喜んでいたのである。時に松山の生徒の風は如何な塩梅かと尋ねた。
君は曰く、てんで話にならない。教師が生徒に対して其の罪をただし、或いは諭す場合にも、生徒は何時も私の損であるから犯しました、若しくは私の得であるから致しましたと答するを通例とする。毫(ごう)も事理を弁じないから、ほとんど論戒の甲斐がない。全然利己の外に一片の節操だも抱かざる有様であった。僅かの間就職していたが、生来こんな不快なる間に衣食したことがない、と長大息された。彼の「坊ちゃん」の小説も、これらの不平の間に胚胎(はいたい)したものと思わるる。
或る日、夏目君と昔話中に、余より彼の鈴木のお松さんのことを話し出して、君は覚えているかと問うた。夏目君は、忘れるどころではない、君も僕も彼女を苛めて辛い目にあわせたから、あの時の事は終生忘れまいと言った。
又、お松さんは実に可愛い女子であったが、行末は如何になったか、君は知らないかと言われた。余は、君もまた当時可愛らしいと思ったか、僕も当時その通りであった。男女七歳にして席を同うせずと云うのはこんな場合から発明したのだろうと、互いに大笑いした。
お松さんは依然加賀町に住居して、某と云う人を婿養子としたが、不幸破縁となり、今は貧困に世を送っていると云うことだけを、かねてより伝聞して居ると語った。
然るに夏目君は、にわかに真面目になり、それは実に気の毒だ、君と僕と協力して、出来得る限り不幸の旧友を救おうではないか、僕もまた上京の時は、かならず彼女を訪ねて不幸を慰めてやりう、と余に語った。
余も夏目君の昔日の如く、友情の篤きと侠気の旺盛なるに感じて、共に此の事を実行しようと固く契った。その後、余が上京してお松さんの消息を探りしが、最近病死されたと聞き、夏目君と共に力を落とした。
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