伊東巳代治・こぼれ話(4)
神田孝平(かんだ たかひら・通称こうへい)について少し紹介したい。
天保元年(1830)生まれというから、西郷隆盛より2歳若く、木戸孝允より3歳年長である。伊東巳代治に会ったときは44歳。美濃の旗本(代官)の側室の子であるから幕臣である。蘭学を学んだ洋学者で、オランダ語はわかるが英語はできない。幕末のころは、江戸幕府の「蕃書調所・ばんしょしらべしょ」の教授だった。「開成学校(大学南校)」の前身だから、東京大学の源流ともいえる。
伊藤博文は明治元年に27歳で、初代の兵庫県令になった。その次の次、3代目の兵庫県令に就任するのが、42歳の神田孝平である。幕臣だが、長州の木戸・伊藤と親しかった。その後、文部少輔(局長)・元老院議官・貴族院議員となり、正三位・男爵となっているから、旧幕臣としてはずいぶん出世した人である。もっとも、神田孝平が正三位・男爵に叙された頃は、伊東巳代治が権力の真っ只中にいた時期と一致するから、伊東が師匠に対する恩返しのつもりで汗をかいたのではあるまいか、と想像する。
この神田は伊東をすこぶる気に入り、兵庫県の役人に採用したいと思い、長崎の巳代治の両親を説得して、伊東巳代治獲得に全力投入する。伊東の手記に戻る。
「自分は別に求むるところなき為、行くつもりなかりき。しかるに県令は、自分が若年ながら英語に堪能なる上に、法律上の知識も有りたるに驚きたるものと見え、自分と別れたる夜、長崎出身にて彭城(ほうじょう)という人が、兵庫県の外務課長なるを知り、自分のことを彭城に問いたりという。彭城は、一面識なきも郷里の評判にてよく知れりとて、’’彼は長崎にて有名な書生にて、家柄もまずまず’’ と答えしかば、神田県令より彭城を経由して、自分を採用したしとの申し込みあり。自分は官吏になる考え無きにより、ていよく謝絶したるところ、この話がその後、両親の耳に入りたり。
父母双方より、手紙にて自分の不心得を叱責し来れり。ことに母の手紙は、ほとんど泣いて訴うるごとき有様にて、実に自分もこれには大いに困却(こんきゃく・困り果てる)したり。両親とも自分が外国人の使用人になりたるを快く思わざるところに、はからずも県令より所望され官途に出る運に向かいながら、これを謝絶するとは不心得なりと言うにあり。かかる両親の心配には自分も抗し難く、遂に意を決し、これを承諾したるなり」
神田孝平 |
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