伊東巳代治・こぼれ話(1)
2年ほど前にこのブログで紹介した「伊東巳代治」を、いまでも内外の多くの方々が読んでくださっているのは嬉しい。
これといった門閥・藩閥のない少年が、満7歳で長崎の英語塾・済美館に入門してグイド・フルベッキの弟子になる。死に物狂いの努力の結果、15-6歳で抜群の英語使いになる。幸運に恵まれ、20歳のとき、工部卿・伊藤博文の面接を受け工部省に入省する。その後も、英語を武器にすさまじいスピードで立身出世していく。
このスピード出世が太閤秀吉を彷彿させるのか。それとも、最晩年になって、軍部に睨まれるのをものともせず、吉田茂などの配下を使い、「国際連盟からの脱退には絶対反対」の論陣を張ったその勇気に、人々は感動するのであろうか。このように思っていた。
この伊東巳代治の曾孫にあたる方・伊東武様・との知己を得て、昭和13年に発刊された大冊「伯爵伊東巳代治」をお借りして熟読する機会を得た。
この本を読んで感じたことは、「英語上級はたしかに伊東の強みではあるが、それ以外の能力があったからこそ、この人物は大きな成功をおさめた」ことを知った。
「大久保利通伝」や「木戸孝允伝」のように明治前期に発刊された偉人の伝記は、はっきり言って面白くない。編纂者が本人を褒め称えすぎる「ヨイショ」の部分が多すぎて鼻につく。これらに比べ、「伯爵伊東巳代治」は、昭和10年代という日本全体の教育水準が高まってきた時ゆえ読者に配慮したためか、あるいは編纂者がフェアな人柄であったゆえか、この種の嫌味が少ない。
この本の何よりの魅力は、伊東巳代治自身が生前に書き留めた「自伝」があちこちに引用されていることだ。正直で率直、簡潔でユーモラスな筆運びで、実にわかりやす文章である。今回紹介するのは、この巳代治自身が書いたものの中から得たエピソードが多い。
ここで少し余談話をしたい。
私は若いころ、三光汽船という船会社で18年間勤務した。同期入社は47人だったが、その中に同志社出身のA君というとても英語の良くできる、同時に個性の強い男がいた。入社して2年が経ったころ、社長の河本敏夫さんは三木内閣の通産大臣に就任し、三光汽船を去られた。主力銀行の大和銀行から、重役の亀山さんという方を社長にお迎えした。東大卒の温厚な人格者で、社員の評判も良い。当時の三光汽船は、業績も良く世界最大の運行船腹量を誇り、さらに積極的に船腹拡大を図っていた。シティバンクやチェースマンハッタン銀行をはじめ、米欧の有力銀行から多額の融資を受けていた。同時に、香港や欧州の船主から多くの船舶を傭船していた。よって、亀山社長はひんぱんに海外出張をされる。
入社3年目のA君は、その英語力を見込まれれて、社長秘書兼通訳に抜擢された。亀山社長と一緒にファーストクラスに乗ってアメリカに出張するA君を、私を含めた同期の連中は、「すごいなあ」と羨望のまなざしで眺めていた。ところがこのA君、2-3度社長に同行して海外出張しただけで、まもなくクビになった。クビといっても、社長秘書をクビになっただけで、古巣の部署にもどり仕事を続けている。
「A、どうしたんだよ?」と私が聞いても、「まあ、出張中にちょっとしたことがあってなあ」と苦笑するだけだ。しばらくしたら、同期の一人から、「ちょっとしたこと」の中身が私の耳に入ってきた。
「Aのやつなあ。チェースマンハッタン銀行の頭取と亀山社長との会食に同席したのだが、亀山さんの言ったことを伝えないで、自分の考えを滔滔(とうとう)と演説したらしいよ。’’A君、僕は英語は得意ではないが、いま君がしゃべったことは僕の言ったことと違うぐらいはわかるよ‘’ と亀山社長が注意したら、’’社長、でも僕はこのほうが正しい考えだと思います’’と言ったものだから、温厚な亀山社長もブチ切れて、帰国したらすぐにクビになったわけさ」同期の一人は、A君の無茶ぶりを面白がって、愉快そうに話してくれた。
じつは、伊東巳代治もこのA君と似た通訳ぶりを発揮している。そしてこのことが、伊東巳代治の出世のきっかけとなる。似ているものの、A君と伊東では、そのやり方と中身がかなり違う。このあたりのことをご紹介したい。
33歳頃の伊東巳代治 |
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