三郎の孫・香月孝氏の著書の中に、「三郎は国賊の弟ということで、陸軍では苦労したと思う。203高地攻撃の最先端を担わされたのは故なしとしない」とある。親族の方の心情としたは充分に理解できる。しかし、筆者は次のように考える。
たしかに陸大受験に関してはこのことはいえる。しかしそれ以外では、陸軍で三郎は多くの同情・理解・尊敬を受けたのではあるまいか。国賊の弟という目で見た学友・教官はいたかもしれない。同時に、憂国の士の弟との尊敬の目で見た人もいたように思う。任官後も同じと思う。むしろ後者の方が多かったのではあるまいか。西南の役ののち、西郷隆盛の人気が軍人のあいだでいっこうに衰えてないという事実から、このように推測する。
三郎は陸軍に在籍のあいだ、否その一生を通じ、兄・経五郎を誇りに思い続けていたと思う。江藤新平は、明治22年の憲法発布に伴う大赦により賊名を解かれた。かつ、大正5年4月11日に、生前と同じ正四位(しょうしい)の位階を追贈された。すなわち、兄・経五郎の賊名も完全に拭われたのである。これを見届けて、そのひと月後に三郎は亡くなった。
経五郎の弟ゆえ三郎は激戦の最先端を担わされた、という見方には賛成できない。2・26事件の決起部隊や、東條英機と対立した軍人が激戦地に飛ばされたという例は、昭和史の中には見える。しかし、日露戦争においてはこの種の話は聞かない。まして乃木希典という人がそのような判断をする人とは思えない。
北海道・旭川の兵を率いる村上聯隊と、群馬県・高崎の兵を率いる香月聯隊が共に勇敢な強兵であったからこそ、乃木軍司令官は、この二つの聯隊に困難極まりない「203高地攻略の決死隊」を命じた。こう考えるのが自然ではあるまいか。
戦術的に見れば、4日前の白襷隊(しろだすきたい)の全滅により、歩兵第一聯隊(東京)・歩兵第二十五聯隊(札幌)・歩兵第十二聯隊(丸亀)・歩兵第三十五聯隊(金沢)は壊滅していた。乃木将軍にとって頼るべき強兵の部隊は、村上大佐の歩兵第二十八聯隊と、香月中佐の後備歩兵第十五聯隊しかなかったのではあるまいか。
死を前にして経五郎が三郎に与えるため書いた漢詩の中に、気になる点がある。
「浪花(なには)に在(あ)りし弟香月三郎に懐(おも)ひを寄す」の箇所である。 佐賀に生まれ育ち、東京の陸軍幼年学校・陸軍士官学校に学んだはずの三郎が、どのような理由でこのとき大阪にいたのか不思議に思い、調べてみたがその形跡は見えない。今、筆者は次のように考えている。
慶應4年(明治元年)12月に、大村益次郎の献策により、新政府は陸海軍の将校を養成する「兵学校」を京都に設立した。明治2年1月に「兵学所」と改名され、9月に大阪に移転し「大阪兵学寮」となった。そして12月に最初の33名が入寮し、すぐに授業が開始された。明治4年、大阪兵学寮は陸軍兵学寮と海軍兵学寮に分離され、同年いずれも東京に移転した。明治5年、陸軍兵学寮幼年学舎が独立して、「陸軍幼年学校」が設立された。
ながながと書いているが、要するに筆者は、「香月経五郎は、弟の三郎は大阪にある陸軍将校養成学校にいると思い込んで、この漢詩を書いた」のだと思う。詩の中身は、将校の卵に与えるにふさわしい内容である。
香月経五郎が弟・三郎の陸軍幼年学校合格の吉報に接したのは、英国滞在中である。明治5、6年ごろ、横浜ーサザンプトン間の船便はかなり多く、人と郵便物の往来は意外に多かった。経五郎の明晰な頭脳は、明治3年に横浜を発ったときの、「陸軍将校を養成する学校は大阪にある」とのままで記憶していたように思える。
香月三郎の陸軍幼年学校合格は栄光につつまれていた。経五郎がこの吉報を、すぐにオックスフォード大学で一緒に勉強していた佐賀の若殿様・鍋島直大に報告したのは間違いない。「なに、三郎が最年少で兵学寮に合格したのか。よくやった!じつにめでたい。佐賀藩の誉(ほまれ)である。経五郎、どうだ。祝杯をあげようではないか」
この時オックスフォードの高級レストランで、若殿様のおごりで祝いの宴会が開かれたのは間違いあるまい。筆者はそう考えている。
|
中列中央が香月聯隊長 |