白襷決死隊(2)
第四回旅順総攻撃の第一日目、すなわち11月26日の夜である。命によって、第一師団歩兵第二旅団長・中村覚少将が指揮する一万数千の精鋭中より志願選抜された3030名がその総員である。中隊では、「この決死隊は到底生還は期し難いから、国許へ送還したい物はことごとく中隊へ預けて行け。時計その他の貴重品も携帯するには及ばぬ」との告示があった。
我々三千名は、明治37年11月26日午後5時、水師営東方凹地にその集合を完了した。直ちに門出の御祝いが始まったが、敵前に近いゆえ至って簡単、5人に1合の酒と、5人に1枚の鯣(するめ)が、この祝宴の御馳走の全部であった。これが済むと、京都東本願寺のお坊さんが来て、懇々(こんこん)と一場の訓戒を垂れた。いわば生きながら引導を渡されたのである。一言一句をも聞き漏らすまいと、全身を耳にして傾聴した。
それから三千名中、我々先頭部隊の一千名が残らず、右肩から左腹に、左肩から右腹に白木綿の襷(たすき)をかけた。死出の白装束という意味もあったが、もっと重要な理由は、暗夜を利して敵の陣中に突撃して八つ当たりの白兵戦を演ずるのだから、敵味方の見分けがつかず同士討ちの憂いがある。その識別を便ならしめるためであった。
一同極端な軽装だった。戦時には普通一人当たり120発の弾薬を持つのだが、この時は各自30発だった。二日分の糧食を背負袋に入れて、一同草鞋(わらじ)履きであった。
中村覚少将の告示があった。
「枝隊の目的は旅順要塞を中断するにあり。一人たりとも生還を期すべからず。予倒れなば渡辺大佐代わるべし。大佐倒るれば大久保中佐代わるべし。各級幹部は皆順次代わるべき者を選定し置くべし。襲撃は銃剣突撃を以てすべし。松樹山砲台に突入するまでは、敵よりいかなる猛射を受くるも応射することを厳禁す。集団する敵に遭遇せば、兵力の如何を顧慮せず突撃すべし。ゆえなく、後方に止まりまたは隊伍を離れ、もしくは退却する者あらば、幹部はこれを斬るべし。死傷者は衛生隊に一任す。ゆえに毫(ごう)もこれが保護に意を用いることなく、一意勇往邁進すべし」
恐らく、これほど悲壮を極めた命令はあるまい。
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