香月三郎は陸軍士官学校旧3期の卒業である。この期の入校は明治10年5月、卒業は12年12月、卒業生96名とある。同期に陸軍元帥・上原勇作、陸軍大将・秋山好古、陸軍大将・柴五郎の名前が見える。
各人の生年月日は、上原1856年12月6日、秋山59年2月9日、柴60年6月21日、香月62年8月8日である。香月三郎は上原勇作より6歳若く、群を抜いた若さで陸軍士官学校に入校したのがわかる。当時、幼年学校も士官学校も入校時の年齢の範囲は一応定められていたが、かなり柔軟に対応されていたらしい。年齢を1つ超えていたが入れてもらった、年齢に達してないが優秀なので入校を許された、などの事例は他にもいくつか見られる。
香月三郎の陸軍幼年学校入校は、明治6年3月と思われる。陸士同期の柴五郎の幼年学校入校がこの年と記録にあるからだ。そうであれば、三郎の入校時の年齢は11歳7ヵ月となる。この年の入校の年齢制限規定は見えないが、大正12年の陸軍規定には、「満13歳以上、満15歳未満」とある。三郎は規定より2-4歳若くして入校したように思える。
本人の学力が高かったのが一の理由であろうが、明治初期に佐賀藩出身者が政府や陸軍の要所に多数いたことも、有利にはたらいたかと思う。「佐賀のあのオックスフォード大学に留学している切れ者・香月経五郎の弟だ。年齢に達してないがともかく受けさせてみろよ」との声が、入学願書を受け付けた陸軍幼年学校の事務局内部であったのかもしれない。良い成績だったので合格させた。
このような例は、明治初年においてあちこちで見える。
ちなみに、三郎と同い年の森鴎外(鴎外のほうは6ヶ月早く生まれている)は、この年(明治6年)に年齢を2歳いつわり、満12歳で東京医学校(以前の大学東校・のちの東大医学部)予科に入校している。後日、鴎外は本科を首席で卒業している。いずれにせよ、陸軍幼年学校入校までは、兄・経五郎の存在は三郎にとってプラスに作用したと思われる。
ただし、三郎は陸軍大学校に入学していない。陸士同期の上原勇作と秋山好古が少将で、柴五郎が大佐で日露戦争に従軍したのにくらべ、香月三郎が中佐であったのは、陸大を卒業してないことに理由があると思える。陸士旧3期の卒業名簿を見ると、あいうえお順ではないので、おそらく卒業時の成績順だと思われる。前から2割ぐらいの箇所に香月三郎の名前が見える。3人の大将の名前は香月のうしろに記載されている。これから察して、陸士卒業時の成績は香月のほうが良かったと考える。
陸軍大学校の入学試験は中尉の頃受けるが、成績優秀・身体壮健・人格高潔に加え、所属の聯隊長の推薦が必要となる。国事犯の弟ということで、この推薦状がもらえなかったのではあるまいか。聯隊長個人の判断というより、陸軍中央よりその種の通達が出ていたような気がする。
日露戦争・司教によるロシア兵へのミサ |
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