2022年4月18日月曜日

白襷(しろだすき)決死隊

 白襷決死隊(1)

香月三郎中佐と村上正路大佐が、203高地の頂上に日章旗をひるがえしたのは、明治37年11月30日午後10時である。

じつはこの4日前、別の決死隊が203高地攻略を目指して奮戦し、ほぼ全員が戦死した。中村覚少将率いる「白襷隊」である。千名が出撃して、生還したのは49名であった。

昭和11年6月、文藝春秋社は日露戦争35周年の特集を企画した。その時生存していた人は2名だった。「白襷決死隊に参加して」との題で、文藝春秋は橋爪米太郎(はしずめ・よねたろう)氏の手記を掲載している。

目を覆いたくなるような戦いである。ロシアの日本侵入を防ぐため、多くの兵隊さんが必死で戦った。今眼前にひろげられているロシアのウクライナ侵入を見るにつけ、この時の日本の将兵がどのような気持ちで戦ったかを想う。橋爪上等兵の手記はこれを伝えている。


「白襷決死隊に参加して」 橋爪米太郎

明治37年3月13日、麻布歩兵第一聯隊の一員として出征渡満した当時上等兵の私が、以来、金州城・南山・営城子・双台溝(そうだいこう)・播磐溝(ばんばんこう)などに転戦し、旅順攻囲中の乃木軍に加わったのは、6月のことである。

右縦隊に属する我々は、まず9月に鉢巻(はちまき)山を落とした。この山は右翼に有名な203高地を控え、露軍にとっては誠に重要な地点である。従って敵はすこぶる頑強なる抵抗をしたため、我が聯隊も約800名の戦死者を出した。

次いで、203高地の第何回目かの大攻撃が開始されたのは、11月中旬であった。夜昼続く激戦で、彼我の屍(しかばね)が山に累積した。こうした戦死者の屍は、30分なり1時間なりの、一時的局部的の休戦によって、双方の収容隊の手で収容される。ある時、敵の衛生隊が、山麓から太く長い綱を曳いて露軍将兵の屍を引下した。あとからあとから死体がまるで芋蔓(いもつ¨る)みたいにゾロゾロと落ちてくるさまには、悲惨とも滑稽ともつかない、奇妙な気がした。

さて、203高地を死守する敵の気力は侮り難く、気負い立った我々の猛襲もおいそれと効を奏さない。といって、持久戦に頼るわけにはいかないのだ。早晩勃発するであろう奉天の大会戦までに旅順をおとさないと、我が乃木軍がそれに参加できない。奉天戦の苦戦は火を見るより明らかである。

一方、バルチック艦隊は刻刻我が国に接近しつつある。うかうかしていられないのだ。今や、焦眉(しょうび)の急は旅順を落とすことだ。かくて、乗るか反るか、白襷決死隊の強引無比の計画が実現されたのである。

白襷決死隊









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